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宗岡氏

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氏姓 宗岡朝臣
出自 蘇我氏
宗岡氏
氏姓 宗岡朝臣
始祖 蘇我連子
出自 蘇我氏
氏祖 宗岳木村
種別 皇別
本貫 山城国
著名な人物 宗岳木村
宗岡包延
後裔 青木家(地下家)
山口家(地下家)
三宅家(地下家)
凡例 / Category:氏

宗岡氏(むねおかし)は、平安時代から室町時代にかけて活動した地下家。

代々史生や文殿、召使などを務めた。宗岳氏とも。

宗岡氏は、元慶元年(877年)に石川木村と箭口岑業が先祖の名(蘇我石川)をもって子孫の氏の名称とするのでは、諱を避けることができず(避諱)、死後に生前の実名を忌んで口にしない風習に反するとして、宗岳朝臣姓に改姓したのが始まりである[1][2]。

延喜5年(905年)4月18日に成立した『古今和歌集』には、宗岳大頼という人物が見える。『古今和歌集目録』によると算博士であったとされ、越国に住んでいたという。大頼が詠んだ歌には「冬河のうへはこほれる我なれや下にながれて恋ひわたるらむ」と「君をのみ思ひこしぢのしら山はいつかは雪のきゆる時ある」があり、後者は凡河内躬恒から贈られた歌への返歌である。

摂関期における宗岳氏の官人は以下の通りである[2]。

また、宗岳氏は平安京に居住しながら周辺の土地を占営して耕営していた。宗岳兼憲は、山城国紀伊郡に属する、平安京の南に隣接する「十条下石原西外里」と「十一条下佐比里」の合わせて三町余の所領を領有していた[2]。

さらに、長元8年(1035年)10月26日の「左近将監秦正近解」によれば、故・宗岳茂兼の財物が9000余石に及んだという[2]。

また、宗岳高助は、馬や着物は粗末な「下衆」であったが、「西ノ京」の「堀河ヨリハ西、近衞ノ御門ヨリハ北」に「八戸主ノ家」を構え、「七間ノ屋」や「綾檜垣」を廻らせた「寝殿」を造り、「女房二十人」や「童四人」「下仕・半物」に2人の姫の世話をさせており、姫達の装束は「綾織」な見事なもので、食器も「銀ノ器」でとらせていた。それは「宮原(皇族)ノ有様ニ不劣ズ」、「実ノ吉キ人」に異ならなかったという。この高助のような人間は、官人としての地位は低いものの、「富の力によって貴族的身分を否定するプラグマティックな倫理を所有している商工業者的長者」であった[2]。

一方地方では、長和3年(1014年)に和泉国和泉郡上泉郷・坂本郷の山野・荒野25町を宗岳光成が開発し、その永代私有を国衙に申請して許可されている[2]。

春日大社蔵「春日神社文書」には、承和11年(844年)11月26日の「河内龍泉寺資財帳写」、同年12月8日「龍泉寺流記資財帳案」、寛平6年(894年)3月5日「河内国龍泉寺氏人等請文案」、天喜5年(1057年)4月3日「龍泉寺氏人連署解状案」という4通の文書が残されている。はじめの3通は来歴が怪しいものの、石川東条の寺敷地、氏人私領家地、古市郡・石川郡両郡の山地などを列挙し、それらが古くから宗岡一族の所領であったことを主張している。「龍泉寺氏人連署解状案」の内容は、これらの地は「氏人等の先祖宗我大臣の所領」であったが、承和11年(844年)に氏長者・宗岡公重が強盗によって殺害され、住宅も焼かれて調度や文書も消失してしまい、残った氏人が寛平6年に河内国衙に訴えたのであるが、これらの地が寺領であることは明白なので、天喜5年にもそれを証明してほしい、というものである[2]。

「龍泉寺氏人連署解状案」によれば、石川東条の寺敷地300町(現在の大阪府富田林市龍泉、石川の東岸)、氏人私領家地(河内国石川郡紺口郷(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村水分~河南町寛弘寺))、古市郡・石川郡・科長郷(現在の大阪府南河内郡太子町太子・春日・葉室・山田)の山地は古くから宗岡氏の所領であったという[2]。

宗岳氏が河内国石川郡において盛んな経済活動を行なっていた時期と、河内源氏が同じ地域で勃興した時期とは完全に重なっており、宗岳氏が河内源氏や石川源氏の郎党となっていた可能性が指摘されている[2]。

のち、氏の表記は宗岳から宗岡に、読みも「そが」から訓読みの「むねおか」に変わった[3]。

鎌倉時代以降に見える宗岡氏は以下の通りである[2]。

平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて活動した宗岡包延は、『地下家伝』によると久安年間(1145年〜1151年)に召使、史生、行事官として朝廷に仕えていたという。また、建久8年(1197年)に上召使として見える[4][2]。

包延以降の宗岡氏は『地下家伝』に系譜が記されている。

実線は実子、点線は養子。
宗岡包延
(久安年間(1145年〜1151年)に召使、史生、行事官、建久8年(1197年)に上召使として見える)
 
 
 
重清
(久寿年間)
 
 
 
兼延
(治承年間)
 
 
 
吉兼
(養安年間)
 
 
 
兼継
(建保年間)
 
 
 
宗職
(延慶年間)
 
 
 
重吉
康永〜元徳年間
 
 
 
行知
(貞和年間)
 
 
 
行助
(重吉の末子、貞和年間)
 
 
 
行継
(年不明)
 
 
 
行言
(行助の子、明徳年間)
 
 
 
行寛
(行継の子、応永年間)
 
 
 
行仲
(応永年間)
 
 
 
行宣
(文明〜享禄年間)
 
 
 
行為
(永正〜慶長年間)
 
 
 
廉行
(青木藤左衛門以栄の子、母は行為の女、永禄〜文禄年間)
 
 
 
青木生行
(青木藤左衛門以栄の次男、母は行為の女、元亀〜文禄年間)

生行の実父が青木藤左衛門以栄であったため、青木家と名乗り幕末まで地下家として朝廷に仕えた[4]。

中世以降の宗岡氏

子孫

脚注

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