宮寺勝利
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荏原高校では1958年に全国高等学校野球選手権東京大会で5回戦まで進出するが、明治高に敗退。高校卒業後は東洋大学に進学。東都大学リーグでは、高校同期の広沢忠雄(電電東京)とバッテリーを組み、1961年秋季二部リーグで優勝。入替戦で専大を降し、1962年春季リーグから一部リーグへの初昇格を果たす。同季は三沢今朝治(駒大)に次ぐ、リーグ2位の打率.409を記録し、ベストナイン(捕手)にも選出された。
大学卒業後の1963年に読売ジャイアンツへ入団するが、在籍中の公式戦出場は僅か32試合に留まった。
1967年、高倉照幸外野手との交換トレードで西鉄ライオンズへ移籍。それまで正捕手だった和田博実が高倉の後の左翼手に回ったため、レギュラーとして127試合にマスクを被る。同年にはオールスターゲームにも初出場。
1969年には故障もあり村上公康に定位置を譲るが、翌年には復活し、その後は村上や片岡新之介と激しいポジション争いが続いた。
1974年には楠城徹の入団もあって出場機会が減り、同年限りで引退。
2度目のオールスター戦出場を果たした1973年は、ライオンズとロッテオリオンズとの間に、ジム・ラフィーバーの獲得競争を巡る遺恨が尾を引いており、8月1日の試合で宮寺は、かつてのチームメイトであるオリオンズの金田正一監督に「バカ野郎!!」と罵声を浴びせられた。翌年4月27日のオリオンズ戦では、外野フライでタッチアップを試みた相手チームの三塁走者・弘田澄男を、片足を掛けるようにブロックした。この行為が原因で金田が宮寺に蹴りを入れ、三塁手のドン・ビュフォードが飛び掛かって金田を押し倒し、これが両チーム入り乱れての乱闘に発展した[1]。
引退後は大宮ゴルフに入社し、サラリーマン生活と並行してテレビ西日本解説者を務めたが、稲尾和久から「運動具店を始めるので手伝わないか」と誘われ、「稲尾スポーツ」に転籍[2]。
「稲尾スポーツ」では後に取締役営業部長も務め[2]、稲尾と共に少年野球リーグと福岡中央リトルシニア発足にも尽力し、全日本リトルシニア野球九州連盟常任理事と福岡中央リトルシニア会長兼総監督も務めた[3]。