宰相殿の空弁当

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宰相殿の空弁当(さいしょうどののからべんとう)は、慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いにおける毛利氏の去就にまつわる故事

関ヶ原の戦いに際し、五大老の一人である毛利輝元は、石田三成安国寺恵瓊の要請を受けて西軍の総大将となった。輝元は豊臣秀頼を保護する名目で大坂城に入り、徳川家康が大坂城に置いていた留守居役を強制的に城から追い出している。

しかし、輝元自身は大坂城から出ようとせず、主戦場には養子の毛利秀元を大将として派遣した。この時、秀元の補佐として吉川広家が任じられたが、広家はこの戦いで西軍が敗れると予想しており、7月15日には既に吉川広家と福原広俊宍戸元続益田元祥熊谷元直(いずれも毛利氏の重臣)らとの間で徳川氏との協議に入ることで合意をしていたが、毛利秀元・安国寺恵瓊はこの決定から外されていた[1]。そのうえで、徳川家の重臣である榊原康政本多忠勝らと極秘に単独停戦の交渉を進めた。

関ヶ原の戦い

関ヶ原布陣図(慶長5年9月15日午前8時前)

関ヶ原の戦いで、毛利軍は家康本陣の背後にある南宮山に布陣した。秀元は南宮山を降りて徳川軍の背後から攻撃するつもりであったが、先陣を務める広家が出撃に反対して道を空けないため動けずにいた。

長束正家の急使が南宮山の毛利の本営に駆けつけ、秀元に戦闘参加を要請してきた[2]。秀元はこれに応じようとしたが、先鋒として前面に布陣している吉川広家の兵にさえぎられているため動くことができなかった。そこで秀元は長束の使者に対して、「兵卒に兵糧を食させている最中なり」といって時間をかせいだ。世人は、これを「宰相殿の空弁当」と称したという [3][4]

そして、吉川家と同じく毛利家に連なる小早川秀秋が戦闘中に寝返り、東軍として戦闘を開始。結果、関ヶ原の戦いはたった1日で西軍が敗北して終了した。

その後、大坂城にいた輝元も戦闘せずに本国へ引き上げたため、毛利・吉川・小早川は家康と戦うことなく関ヶ原の戦いを終えることができた。

関ヶ原の戦い以降

脚注

関連項目

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