富川春美
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1985年(昭和60年)4月5日に『夕やけニャンニャン』の「ザ・スカウト アイドルを探せ!」のオーディションに出演、111点を獲得し会員番号12番の河合その子、13番の内海和子と共に合格し、おニャン子クラブの会員番号14番となった[注 1]。富川は同番組の初回から最終回まで在籍[注 2]した唯一のメンバー(※ほぼグループ全活動期にわたって在籍していた)であり、片岡鶴太郎が命名した「お富さん」の愛称で親しまれた[注 3]。早い段階からソロデビューが決まり、デモテープのレコーディングも行ったが、直後の学校側からのテレビ出演禁止令により、年明けからの半年間『夕やけニャンニャン』の出演自粛を余儀なくされる[注 4]。
1986年(昭和61年)の1月より番組から姿を消し、その間、何のアナウンスもされなかったことから、「第二の週刊文春喫煙事件による降板か」とも噂された。ただしこの休業は『夕ニャン』を含むテレビ出演に限られていた。同年3月16日から4月1日にかけて行われた全国縦断コンサート、『おニャン子のあぶな〜い課外授業』にはリハーサルから参加しており、ステージ上や舞台裏でおニャン子の一員として自然に活動する姿がDVD『バックステージ』に収められている。しかし5か月後、当日の日直(司会)の永田ルリ子が「今日から仲間が帰ってきました。お帰りなさい。」と紹介すると、富川は「ただいま、戻りました。」とあいさつし、復帰を果たした。
おニャン子クラブとしての活動が中期の頃になると、曲のフロントボーカルを務め、初期メンバーのほとんどが卒業した1987年4月以降は、城之内早苗や永田と共にメンバー全員を引っ張り、リーダー的な役割をこなすことが多かった。おニャン子クラブの解散後も芸能活動(※並行してモデルの活動も行った)を数年間続けたが、1988年の秋頃に女優へ転進する予定があった[要出典]。
芸能界引退後は沖縄県にあるJAL系のリゾートホテルに就職[注 5]し、マリンスポーツの受付嬢として働き、休日はダイビングを楽しんだ[1]。29歳のときに5歳下の男性(米軍施設のコック)と結婚し、三児の母(専業主婦)となった[1]。その後、布川智子(結婚後は荻野に改姓。以降は原則、「荻野」と記載)が2020年(令和2年)9月29日に投稿した公式ブログで民宿(1棟貸し)を経営していることを明かしている[2]。
エピソード
- メンバー内では内海和子と仲が良く、姉のように慕っていた[3]。芸能界引退後は布川智子(現・荻野智子)との交流が多く、荻野の公式ブログには「仲良しな親友」とつづったことがあった[4]。なお、富川の近況は荻野が自身の公式ブログに不定期で投稿しており、そこで確認することができる[5]。
- 工藤静香が「私が男だったら惚れていた」と発言したこともあった。
- 肩幅が広いことから、メンバー内で「ハンガー」と呼ばれていた。「ツッチーホラーショー」のクイズで、永田が何の脈絡も無く「ハンガー」とフリップに記し、その際富川の方にチラっと目線を送ったことは、コアなファンの中では「ハンガー・チラ事件」として有名である。
- アイドル時代は回転寿司巡りが好きだった。この事は番組本・おニャン子クラブの楽曲、「新・会員番号の唄」[6]・内海の公式ブログ[7]で明かされている。
- 『夕やけニャンニャン』の「ザ・スカウト アイドルを探せ!」のオーディションにてチャームポイントは八重歯と答えていたが、後[いつ?]に歯列矯正を受けている。
- 誕生日はおニャン子クラブのメンバー、横田睦美と同じ日である(※横田は1967年生まれ)。
- 読売テレビで2013年5月18日に放送された『ガリゲル』において、たまたまロケ先で取材される母親として登場した[注 6]。
- 2017年にFLASHの取材に応じ、沖縄に移住するきっかけを語った。富川はこの取材で「おニャン子を卒業したあと、ある番組[注 7]で沖縄を訪れて、オクマビーチに魅せられてしまった」と語っている[1]。
音楽
フロントボーカル曲
シングル曲
アルバム曲
- 恋愛御見舞申し上げます(『夢カタログ』に収録)
- 避暑地の森の天使たち(『PANIC THE WORLD』に収録)
- 体育館はダンステリア(『PANIC THE WORLD』に収録)
- 早口言葉でサヨナラを(『NON-STOP おニャン子』に収録)
- ハートに募金を(『SIDE LINE』に収録)
- シンデレラのシューズ(『Circle』に収録)
- 白いコスモスの頃(『Circle』に収録)
- 間に合うかもしれない(『Circle』に収録)