Wikiwand AI

寺内寿一

日本陸軍の元帥(1879-1946) From Wikipedia, the free encyclopedia

寺内 寿一(てらうち ひさいち、旧字体: 寺內 壽一、1879年〈明治12年〉8月8日 - 1946年〈昭和21年〉6月12日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は元帥陸軍大将、位階は従二位、勲等は勲一等、功級は功一級、爵位は伯爵。東京府生まれ、東京府育ち[1]。山口県出身。

生年月日 1879年8月8日
出生地 大日本帝国の旗 日本・東京府[1]
没年月日 (1946-06-12) 1946年6月12日(66歳没)
死没地 イギリス領マラヤ・レンガム
概要 生年月日, 出生地 ...
寺内(てらうち) 寿一(ひさいち)
寺內 壽一
生年月日 1879年8月8日
出生地 大日本帝国の旗 日本・東京府[1]
没年月日 (1946-06-12) 1946年6月12日(66歳没)
死没地 イギリス領マラヤ・レンガム
出身校 陸軍士官学校(11期)
陸軍大学校(21期)
称号 元帥陸軍大将
従二位
勲一等旭日大綬章
功一級金鵄勲章
伯爵
親族 寺内正毅(父)
寺内毅雄(弟)
大日本帝国の旗 第24代 陸軍大臣
内閣 廣田内閣
在任期間 1936年3月9日 - 1937年2月2日
テンプレートを表示
閉じる

第18代内閣総理大臣などを歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で、皇族以外では陸海軍を通して親子2代で元帥府に列せられた唯一の人物である。

陸軍大臣在任時は、衛生省(厚生省、現・厚生労働省)の設立を提唱。太平洋戦争期には、編成時から一貫して南方戦線の陸軍部隊を統括する南方軍総司令官を務めた。

生涯

1936年、陸軍大臣当時の寺内(左端)
「腹切り問答」の際に壇上から浜田国松議員を睨みつける寺内、奥が広田総理
  • 廣田内閣総辞職後、宇垣一成に組閣の大命が降下されるが、湯浅倉平内大臣の事前打診に「もういい時分だ」と確言したにもかかわらず、石原莞爾ら陸軍中堅将校の猛反対を背景に陸相を推挙せず、宇垣内閣を流産に導く。宇垣は陸相在任時、予備役編入が内定した寺内の「母の胎内にいる時から陸軍に育った私です。任地は由良でも澎湖島の要塞でも結構ですから、どうか一生陸軍に置いて頂きたい」との言葉にほだされ、彼を現役に留めた恩人であった[2]。
  • 1937年(昭和12年)2月 - 教育総監。親任式は、中村孝太郎の見舞いに行っていた[注 1]ことから遠慮することとなった[3]
  • 1937年(昭和12年)8月 - 北支那方面軍司令官
1938年、北支那方面軍司令官当時の寺内(右)。同年生まれで陸士陸大では1期後輩であり、のちに同じく元帥となる中支那派遣軍司令官当時の畑俊六大将(左)とともに
1942年、シンガポールにおいて南方軍総司令官当時の寺内(中央)
シンガポールにある「南方軍総司令官寺内元帥之墓」

逸話

  • 育ちが良く、周囲や部下に細密な気配りができ、陸軍では下士官や兵に人気があった。ただ、一方で幼少時は同級生を暴行していたとも伝えられる。作家永井荷風とは高等師範学校附属尋常中学校時代の同窓生(永井は病気で休学していた期間があり、復学した時に同期となった)だが、山田風太郎によると、軟派学生だった永井を看過出来なかった寺内は、永井に対して暴行を加えたこともあったという[7]。
  • 松前重義が東條英機によって懲罰召集され、勅任官である逓信省局長にもかかわらず、二等兵として南方に送られて来た際には、総司令官名での辞令を連発して、事実上スーツ姿で軍政顧問として働くようにさせた。陸軍の最長老で元帥でもある寺内にはさすがの東條もやり返せず、そのままになったが、そもそも松前が南方に送られたのは東条失脚の後である。長州閥に敵愾心を燃やした東條と長州閥のボスだった寺内正毅を父に持つ寺内寿一との関係は微妙なものがあった。
  • 戦時中は埼玉県にある盆栽村の庇護者でもあり、ホテルのマネージャーをやってみたいと語ったこともある。なお、旧日本軍最後の軍歌『壮行譜』は、寺内が収監された時に贈られた曲である。
  • 身長は170cm以上と、明治初期の生まれとしては高身長であった。

人物

陸軍元帥で華族の子息として生を受けるという恵まれた環境に育ち、身体的特徴としても容姿端麗で長身でであり、性格としては清潔、恬淡を旨とし金銭欲、権力欲、政治的野心のない純粋な軍人肌の人物であったとされる[8][9]。

栄典

位階
爵位
称号
勲章等
さらに見る 受章年, 略綬 ...
受章年 略綬 勲章名 備考
1906年(明治39年)4月1日 勲五等双光旭日章[18]
1906年(明治39年)4月1日 功四級金鵄勲章[18]
1913年(大正2年)12月17日 木杯一組[19]
1914年(大正3年)5月16日 勲四等瑞宝章[20]
1915年(大正4年)11月7日 旭日小綬章[21]
1915年(大正4年)11月7日 大正三四年従軍記章[21]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章(大正)[22]
1920年(大正9年)6月25日 勲三等瑞宝章[23]
1920年(大正9年)11月1日 旭日中綬章[24]
1920年(大正9年)11月1日 大正三年乃至九年戦役従軍記章[24]
1920年(大正9年)11月1日 戦捷記章[25]
1929年(昭和4年)9月4日 勲二等瑞宝章[26]
1934年(昭和9年)4月29日 勲一等瑞宝章[27][28]
1934年(昭和9年)4月29日 昭和六年乃至九年事変従軍記章[28]
1938年(昭和13年)8月13日 旭日大綬章[29]
1938年(昭和13年)11月2日 銀杯一組[30]
1940年(昭和15年)8月15日 紀元二千六百年祝典記念章[31]
1942年(昭和17年)3月21日 功一級金鵄勲章[32]
閉じる
外国勲章佩用允許
さらに見る 受章年, 国籍 ...
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1934年(昭和9年)3月1日 満洲国 満洲帝国 建国功労章[33]
1935年(昭和10年)9月21日 満洲国 満洲帝国 満洲帝国皇帝訪日記念章[34]
1937年(昭和12年)12月1日 満洲帝国 勲一位景雲章[35]
1938年(昭和13年)1月25日 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国 アードレル勲章グロースクロイツ[36]
1943年(昭和18年)3月16日 タイ王国 白象勲章勲特等[37]
閉じる

家族

子がなかったため、妻の姪を4歳から育て、その婿に萩銀行頭取で大地主の菊屋剛十郎の孫・嘉雄を迎え、跡継ぎとした[38][39]。

脚注・出典

関連文献

関連項目

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks