対馬丸 (連絡船・初代)
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| 対馬丸(初代) | |
|---|---|
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| 基本情報 | |
| 船種 | 海峡渡船 |
| 船籍 |
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| 運用者 |
山陽汽船・山陽鉄道・鉄道作業局 帝国鉄道庁・鉄道院・鉄道省 |
| 建造所 | 三菱合資会社長崎三菱造船所 [3](船番171[4]) |
| 姉妹船 | 壱岐丸 |
| 船舶番号 | 9048 [5] |
| 信号符字 | JMNP[3] |
| 経歴 | |
| 起工 | 1904年(明治37年)5月31日[3] |
| 進水 | 1905年(明治38年)8月27日[3] |
| 竣工 | 1905年(明治38年)10月26日[3] |
| 就航 | 1905年(明治38年)11月1日[3] |
| 終航 | 1925年(大正14年)12月17日[3] |
| 要目 (新造時) | |
| 総トン数 | 1,679トン[3] |
| 全長 | 270ft 6in(82.4484m)[3] |
| 垂線間長 | 260ft(79.248mm)[3] |
| 型幅 | 36ft(10.9728mm)[3] |
| 型深さ | 22ft(6.7056m)[3] |
| 満載喫水 | 12ft 6in(3.81m)[3] |
| ボイラー | 舶用スコッチ缶(石炭専燃) 2缶[6][3] |
| 主機関 |
三連成往復汽機 2台[7] |
| 最大出力 | 2,311指示馬力[3] |
| 最大速力 | 14.93ノット[3] |
| 旅客定員 | |
| 乗組員 | 75名[3] |
| 積載能力 | 貨物300トン[3] |
対馬丸(つしままる)は、山陽鉄道傍系の山陽汽船による下関 - 釜山間の関釜航路開設のため、三菱合資会社三菱造船所で建造された2隻の壱岐丸型海峡渡船の第2船で[8]、第1船壱岐丸に遅れること2ヵ月の 1905年(明治38年)11月1日就航した[9][10]。
1923年(大正12年)3月10日、稚内と樺太大泊を結ぶ稚泊航路開設のため札幌鉄道局へ転属したが[11][12]、砕氷船化工事のため、就航は同年6月8日となり、稚泊航路開設の同年5月1日から本船就航までは、当時青函航路所属であった姉妹船壱岐丸を代船として就航させた[13]。
1925年(大正14年)12月17日、稚内に向け航行中、吹雪による視界不良の中、針路を誤り、稚内港外野寒岬沖で座礁、その後全損、船体放棄となった[14][15]。
壱岐丸・対馬丸建造の経緯
1901年(明治34年)5月27日の山陽鉄道 馬関 - 神戸間全通と[16]、日露戦争中、1905年(明治38年)1月の朝鮮半島での京釜鉄道 京城 - 釜山間全通[17]を受け、山陽鉄道は日露戦争後の日本の大陸進出を見込み、両鉄道の連絡運輸のため、下関[18]から釜山に至る122海里(226キロ)の関釜連絡船航路開設を計画し、傍系の山陽汽船が、同航路用の壱岐丸型1,680総トン級海峡渡船2隻を長崎の三菱合資会社三菱造船所で建造した。その第1船 壱岐丸(初代)は日露戦争終結直後の1905年(明治38年)9月11日、関釜航路開設初便として就航し、同年11月1日には第2船 対馬丸(初代)が就航して毎日運航となった。両港間の運航は釜山行・下関行とも所要時間11時間30分の夜航便で、東京 - 京城間は60時間で結ばれた[19][9][20]。
船体構造
壱岐丸型は日本初の大型海峡渡船で、全通の覆甲板[21][22]とその下に正甲板を有し、船首楼はなかった。船体全長の約半分の長さの甲板室を覆甲板の船体中央部に設け、さらに船尾には小さな甲板室が設けられていた。中央部のこの甲板室の前後の覆甲板にはわずかに後傾したマストが1本ずつ立ち、甲板室屋上両舷には各舷3隻ずつの救命艇が懸架され、ここを端艇甲板と称し、その中央にはマスト同様わずかに後傾した煙突が1本立っていた。
覆甲板中央の甲板室の煙突囲壁より前方は1等区画で、2人用寝台室と天井に大きな採光ドームを備えた広い談話室が設けられ、談話室中央の吹き抜け階段を1層降りた正甲板には1等食堂が配置されていた[9]。甲板室の煙突より後ろは2等区画で、最後部は開放2段寝台室となっていた。3等船室は1層下の正甲板船尾側に配置され、2段雑居のいわゆる“蚕棚式”で、その中央部床面には、直下の後部船艙の貨物ハッチが設けられ、その直上には覆甲板後部の貨物ハッチが設けられ、後部マストのデリックで後部船艙の荷役ができた。覆甲板前部には前部船艙の貨物ハッチもあり、前部マストのデリックで荷役ができた[9][23]。操舵室は新造時には1等談話室屋上、採光ドーム前方の端艇甲板前端に設置されていたが[23]、冒頭写真のように、関釜連絡船時代の後年、1層上に移設されていた。ボイラーは舶用スコッチ缶2缶、レシプロ機関2台2軸で舵は1枚であった[24][23]。
関釜連絡船国有化と傭船
山陽汽船は1906年(明治39年)11月27日、 親会社の山陽鉄道に吸収合併され、その直後の12月1日、山陽鉄道が国有化されたため、関釜航路も国有となった[25]。接続する京釜鉄道は、それより前の1906年(明治39年)7月1日、国有化され統監府鉄道管理局京釜線になっていた[26][27][28]。
国有化後の同航路の客貨輸送量の増加は著しく、壱岐丸型2隻では対応できず、1907年(明治40年)8月10日には会下山丸(1,458総トン[29])を傭船し[25][30]、1908年(明治41年)4月1日には釜山と中朝国境の町 新義州とを26時間で結ぶ直通急行「隆煕」の運転開始を受け[31]、隔日の昼航便運航が開始され、4月27日には薩摩丸(1,946総トン)を傭船して、昼航便も毎日運航とした[32][30]。
1910年(明治43年)8月には日韓併合があり、翌1911年(明治44年)11月1日には中朝国境の鴨緑江鉄橋が完成し、南満州鉄道 安奉線に乗り入れ、当時清国であった中国の奉天まで、さらに1912年(明治45年)6月には満鉄本線に乗り入れ、長春まで直通列車が運転された[33]。
内地側でも1912年(明治45年)6月15日から、新橋 - 下関間直通の展望車連結1、2等特別急行列車と速達便貨物列車の運転が開始され、関釜航路の客貨輸送量はさらに増加した[34][9][33][35]。
これに先立つ1911年(明治44年)1月には、青函航路で傭船中の帝国海事協会の義勇艦で、高速を誇るうめが香丸(3,273総トン、最大速力21.315ノット)を転入させ[36]、会下山丸を青函航路へ転出させ、同年4月にはうめが香丸の姉妹船の義勇艦さくら丸(3,204総トン、21ノット)[37]も傭船して薩摩丸を一時解傭し、1912年(明治45年)6月からはこの2隻の高速船による、特別急行接続の9時間30分運航昼航急行便が週3回運航された[32][33]。
高麗丸・新羅丸就航
昼航便運航にもかかわらず、旅客は依然夜航便に集中し[38]、壱岐丸型では輸送力不足となったため、夜航便用客貨船として、旅客定員603名と大型化した高麗丸(こままる)(3028.51総トン)と新羅丸(3020.66総トン)を神戸の川崎造船所で建造し、1913年(大正2年)1月31日と4月5日に就航させた[39][40]。
この2隻の就航で、さくら丸と、再傭船していた薩摩丸の2隻の解傭はできたが、1912年(明治45年)6月から傭船中の日本赤十字社の病院船 弘済丸(2,589.86総トン[41])は引き続き傭船された[42]。なお、うめが香丸は1912年(大正元年)9月23日、門司港停泊中暴風雨で浸水沈没していた[43]。
1913年(大正2年)10月1日には関釜連絡船、朝鮮鉄道、南満洲鉄道経由で日中連絡運輸が開始され、旅客は日々増加[44]、1914年(大正3年)7月勃発の第一次世界大戦は、その後の大戦景気と、世界的な船腹不足による海運貨物の鉄道への転移を促し、鉄道連絡船航路であった関釜航路の貨物輸送量も急増した[45]。このため、1916年(大正5年)以降は、傭船不足と傭船料高騰の中、常時3、4隻の傭船を運航し、主として貨物輸送に充てた[42]。青函航路でもこの時期、同様に傭船不足の中、苦しい運航が続けられていたが、1916年(大正5年)4月に青函航路へ転出していた弘済丸[42]が1917年(大正6年)10月3日から事故休航し、その代船として10月11日から10月27日まで対馬丸を急遽青函航路に助勤させていた[46]。
鉄道院経理局で石炭輸送をしていた多喜丸(載貨重量1,830トン 総トン数1,227.56トン[47])を1919年(大正8年)4月、貨物船転用のうえ関釜航路へ転属させてからは[48]、 コレラ予防検疫停船による貨物輸送激減対策として、同年9月から山光丸(846総トン)を3か月間傭船した以外は[49]、戦後恐慌の影響による貨物輸送量減少もあり[45]、傭船は1918年(大正7年)4月から傭船中の日本赤十字社の病院船 博愛丸(2,614総トン)1隻のみとなった[42]。
景福丸・徳寿丸・昌慶丸就航と壱岐丸・対馬丸転出
第一次世界大戦中の船腹不足による傭船難と傭船料高騰に悩まされた鉄道院/鉄道省 [50]は、傭船頼み脱却を目指し、何れも3,619総トンの景福丸型3隻を三菱造船神戸造船所で建造し、1922年(大正11年)から1923年(大正12年)にかけて就航させた[51][52]。
これら3隻は最大速力20ノット前後と高速で、下関 - 釜山間を昼航8時間、夜航9時間で航行でき、旅客専用船とすることで貨物荷役を省略して停泊時間を短縮し、関釜間を1日1往復できたため、これら3隻で、年間を通じて昼夜1往復ずつ計2往復の運航が可能となった。このため、高麗丸、新羅丸の2隻は多客時以外は定期貨物便運用となった[51][53]。
これにより、1922年 (大正11年)3月29日には関釜航路唯一の傭船博愛丸が解傭され、同年10月18日には壱岐丸が未だ傭船頼みの青函航路へ転属[12][42]、対馬丸も1923年(大正12年)3月10日付けで、新設予定の稚泊航路就航のため札幌鉄道局へ転属した[11]。