小山豊太郎

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小山 豊太郎(こやま とよたろう[1]明治2年3月10日[注釈 1]1869年4月21日〉 - 昭和22年〈1947年8月4日)は日本テロリスト。別名に六之助/録之助(ろくのすけ)[2]日清戦争の講和会議に際して清国全権大使・李鴻章を狙撃したことで知られる(李鴻章狙撃事件)。

現在の群馬県館林市大島町に生まれる[5][2][1]。父・孝八郎は県会議員を務めた村の名士であった[2][1]

館林で高橋渡[注釈 2]に3年ほど理学の教えを受け[5]、さらに栃木県中学校に学ぶ[5][2][6]。栃木県中学校を中退[2]1884年(明治17年)ごろに上京して慶應義塾に学ぶが1886年(明治19年)に脚気で退塾し故郷へ帰る[7]。放蕩のため父から勘当され[2]1888年(明治21年)に廃嫡された[4]1889年(明治22年)慶應義塾に再入学するが、父が学費を出さなかったため翌年またしても退学した[7]明治法律学校に学んだともいう[2][1]

自由党系の壮士となり、政治運動に身を投じるが、本人は事件後の取り調べで自由党員ではないとしている[8]。六之助の名は、同じ村に小山豊次郎という者があり、政治運動をするにあたって間違えられては困るという理由で改名届を出したものの、役場が却下したっため自称として用いていたものだという[6]。狙撃事件を起こした時点では伊藤痴遊書生としてその家に身を置いていた[9]

1894年(明治27年)、日清戦争が開戦し、日本優勢のまま側が停戦を申し入れ、翌年下関市阿弥陀寺町春帆楼で停戦交渉が始まった[2]。しかし優勢を背景に日本側は強気で、1895年(明治28年)3月24日、清の全権大使李鴻章に対し、停戦ではなく講和条約交渉を認めさせることに成功した。

同日夕方、豊太郎は、交渉を終えて春帆楼から宿舎の引接寺へ戻る途中の李鴻章をピストルで襲撃した[2]。豊太郎はその場で警察官と憲兵に取り押さえられた。李は顔面の負傷で済んだが、日本側はテロ事件の発生に対する列強の批判や干渉を恐れ、清との3週間の休戦に応じた[10]。また、講和での対清要求も、若干譲歩している(詳細は下関条約の項を参照)。

拘束時に豊太郎は長文の「斃奸趣意書」を所持していた[11]。犯行後に供述した動機は「李鴻章は亜細亜の平和を破る奸賊にして、之れを生存せしめては、到底東洋の平和を維持し難きを以て、予て同人を殺害せさる可からすと思念せる」ことによるものであった[12]

1895年(明治28年)3月30日に山口地方裁判所謀殺未遂罪により無期徒刑判決が出された[3][12]。4月4日に判決が確定し、北海道集治監釧路分監に身柄を送られ同月30日に到着した[13]1901年(明治34年)には10月1日には同網走分監(のちの網走監獄)に移された[13]1897年(明治30年)1月に英照皇太后崩御による恩赦で有期徒刑十五年に減刑され、刑期満了に先立つ1907年(明治40年)8月25日に仮出獄した[13][14]。さらに1908年(明治41年)9月21日に特赦放免および復権を受けた[13]

その後は特段の職につかず、頭山満の庇護を受けた[14][1]。「亡雪」を号し書家と称して私塾を開いたり、碁会所を経営していたりしたという[14]1910年(明治43年)、獄中記『活地獄』を上梓したが、李の襲撃については触れていない[1]また細野米次郎の長女の細野シャウと1911年(明治44年)4月27日に籍を入れた[要出典]1924年大正13年)の第15回衆議院議員総選挙には群馬県第3区から立候補したものの、49票しか得られず惨敗した[注釈 3][14]太平洋戦争中は太田市韮川疎開[14][1]

1947年昭和22年)8月4日、東京都葛飾区小谷野町で死去[14]。戒名は瑞豊院慷然信士、墓所は本納寺[14]

備考

山田風太郎小説『牢屋の坊っちゃん』は、夏目漱石の『坊っちゃん』のような人物なら、投獄されることがあるかも知れないという着想の元、豊太郎と『活地獄』をモデルに、漱石の文体で坊っちゃんの獄中生活を描いた作品である。

著書

脚注

参考文献

関連項目

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