武藤金吉
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上野国山田郡休泊村(現在の群馬県太田市)出身。武藤房吉の長男[2]。英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業した[2]。東奥日報創刊とともに記者となり、自由民権を主張した。1899年(明治32年)には自ら「実業新聞」を創刊した。また蚕糸業の発展に尽力し、帝国蚕糸株式会社専務取締役、大日本蚕糸会評議員などの職に就いた。その他山保毛織株式会社社長、群馬県農工銀行取締役などを歴任した。
1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1907年(明治40年)10月11日、群馬県会議員選挙において武藤らは政友会脱党者を取り返すために赤城館へ不当に入ったと告訴され、一審は無罪だったが1908年(明治41年)2月27日、二審の東京控訴院は家宅侵入罪で重禁錮1月15日の実刑判決[3][4][5]。武藤は翌3月、衆議院で事件を起訴した検事が反対党の知人で、判決は不公平だと表明した上で議員辞職、同月5日に東京監獄に服役となった[6][7]。これにより勲四等旭日章小綬章を褫奪された[8][9]。後に議員に復帰、田中義一内閣で内務政務次官に就任したが、議員8期目在職中に死去した。
