小山隆重
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そもそも、元弘の乱に際して、小山経幸・実隆[5]兄弟が執権北条高時の命[6]で、下野国より上洛し、熊野に入って沿海警固の任についた。経幸は牟婁郡・富田郷に、実隆は牟婁郡・潮崎庄古座浦に居住した[7]。
南北朝期、実隆ははじめ北朝方に属した[8]が、のちに南朝方に転向している。そして、延元元年6月、新宮の足利一族と新宮諸上綱とが軍勢を率いて上洛せんとしたことから、海上において合戦し、これを追い返した。以降、南朝方として奮戦する。
永享12年(1440年)の大和永享の乱に際して、小山九郎は畠山持国に属して多武峯に出陣した。
享徳3年(1451年)三管領家の紀伊国守護畠山氏の内訌に巻き込まれ、応仁の乱が起ると、畠山政長に属した小山八郎は、文明8年(1476年)、秋津口合戦、目吉良城攻め、衣笠・知法寺両城攻めならびに龍口の合戦において軍功を挙げた。
以降、畠山氏の動向に揺さぶられることとなる。
隆重は経幸から8代目にあたる。