小槻山君
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歴史
古代、近江国栗太郡(現 滋賀県草津市・栗東市一帯)を拠点とした豪族である。
天平年間には朝廷に献上されていた采女・小槻山広虫の名が文献に見え[3][4]、栗太郡郡司クラスの家柄だったと推測される[5]。
また、嘉祥2年(849年)小槻山家嶋が興統公の姓を賜って京に居を移す[6]とある他、貞観15年(873年)小槻山今雄と有緒らが京に居を移す[2]とある。
その後貞観17年(875年)今雄・有緒・良真らは「阿保朝臣」の氏姓を賜って改姓する[7]。後年今雄の子孫はさらに小槻宿禰と改姓するが、元の小槻山君に関しては文献から名が消える。
弘仁6年(815年)に成立した『新撰姓氏録』では、小槻臣の記載はあるが小槻山君はない。
京移住以後
前述のように阿保今雄らは京に居を移し、子孫の小槻氏(官務家)は朝廷に仕えることとなる。
一方で影響力は無くなったのか、元の栗太郡では文献に名があまり見られなくなる。その後の足跡として栗東市に所在する大宝神社の神主として小槻氏一族の名が散見されるが、氏神であるはずの小槻大社の神主には同時期に小槻氏の名がなく、青地氏の名が見られる。これより、小槻氏は青地氏に駆逐されたのか、もしくは青地氏が以後も小槻大社・小槻神社に対する寄進を重ねていることから、青地氏は改名した小槻氏一族もしくは小槻氏の在地領主と考えられる[8]。その後、青地氏は室町・戦国時代、近江国における有力氏族として六角氏・織田氏の下で戦いを重ねるが、元珍の代で没落し、江戸時代以後は加賀藩士として維新を迎える。