小泉節子
小泉八雲の妻
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概要
出雲松江藩の家臣小泉家[3]の二女として生まれ、親戚の稲垣家の養女となる。子供の頃に稲垣家が没落して節子は11歳から生家の機織会社で織子として働いた。18歳の時に婿養子を迎えて結婚したが、夫は貧しさに耐えられず出奔し大阪に移る。22歳で正式に離婚し小泉家に復籍する。家計を支えるため松江の英語教師として赴任したラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)の家の住み込み女中となり、のちに結婚した。八雲の日本語の理解を助けるとともに、幼少時から物語が好きだったこと[4]もあって日本に関する八雲の著述を支えた。八雲との間に三男一女をもうけた。八雲の死後に、八雲との思い出をつづった「思い出の記」を著した[5][6]。
生い立ちから八雲との結婚まで
系譜については小泉八雲#系譜の節も参照。
松江生まれ。父は出雲松平家の番頭で家禄300石の小泉八代目弥右衛門湊(1837 - 1887年)、母は松江藩の家老職を務めた塩見増右衛門の長女、小泉チエ(1838 - 1912年)[7]。6人兄弟の二女で、11人の子供の6人目であるが、そのうち5人は夭折した。兄2人(氏太郎、武松)、姉1人(スエ)、弟2人(藤三郎、千代之助)がいる。生後7日で親類で子供の無かった家禄100石の稲垣家[8]の養女となる。養祖父は稲垣六代目万右衛門保仙、養父は稲垣金十郎(1832 - 1900年)、養母は稲垣トミ(1834 - 1912年)。
幼いころから物語が好きで、大人たちから昔話・民話・伝説などを聞いて育った[9]。あるフランス下士官が生家の近くを訪れた時があったが、他の子供らが見慣れぬ西洋人に戸惑い逃げる中、節子は逃げずに下士官をじっと見詰めていると、抱き上げられて頭を撫でられルーペを貰った。節子は「顔は怖いが心は優しい」と思った。この出来事がないと八雲と結婚しなかったと語り、生涯ルーペを大事にした[10]。
明治維新で士族は家禄を失い困窮した。節子の養家・稲垣家も没落したため、小学校を優秀な成績で卒業し上級学校への進学を希望したにもかかわらず、11歳から実父・小泉湊が興した機織会社で織子として働き家計を助けた[11]。
18歳の時に稲垣家は旧鳥取藩の足軽の二男で28歳の前田為二を婿養子として迎えるが、為二は困窮に耐えられず一年足らずで大阪へ出奔した[12]。1890年(明治23年)、22歳の初めに正式に婚姻関係を解消して小泉家に復籍した[13]。小泉家も、湊が1887年(節子の結婚の翌年)に病死し機織会社が倒産した頃は既に困窮しており、1891年(明治24年)2月頃一人住まいのハーンの家に住み込み女中として働き始めた[14][注 1]。
結婚生活
同居して約半年を経た1891年(明治24年)7月に、ハーンは同僚の英語教師西田千太郎[注 2]と出雲大社近くの稲佐の浜を訪れ約半月滞在したが、ハーンは2日目には節子を呼びよせて仲よく一緒に行動しており「住み込み女中」という扱いではなかった。また8月11日にハーンが友人に出した手紙には節子との結婚を報じている[17]。
1891年(明治24年)11月に八雲の転勤で夫婦は熊本県熊本市に転居。節子は八雲との意思疎通のために英語を勉強するが結局ものにならなかった[18]。しかし八雲が語る片言の日本語の「ヘルンさん言葉」を節子は正確に理解し、夫婦はお互いに意思疎通ができた[19]。熊本では1893年(明治26年)に長男の一雄が誕生した。
1894年(明治27年)、夫婦は兵庫県神戸市に引っ越した。八雲が熊本時代に執筆した『知られぬ日本の面影』が好評となったのを受けて、著述に専念するようになった[20]。これ以後の八雲の主要作品に節子が素材を提供している[21]。神戸在住中の1896年にハーンは兵庫県知事の承認を得て日本に帰化し、更に小泉家への「外国人入夫結婚」の願いが島根県知事に「承認」されて正式に「小泉八雲」となった[22]。
1896年(明治29年)夫婦は東京府牛込区市谷へ転居する。東京でも節子は八雲に作品の素材を探して提供した。伝承だけでなく当時出版されていた書物を節子が読んで、その内容を「ヘルンさん言葉」で八雲に伝え、彼の執筆を支えた[23]。八雲は節子に対し「本から得た物語」であっても本を見ずに節子自身の言葉で語る「語り部」であることを要求し、それに応えた[24]。夫婦は東京で二男一女をもうけるが、西大久保に引っ越した1902年頃からハーンの健康が衰え始め[25]、節子が36歳の1904年(明治37年)9月26日に死去した。
八雲の著作に対する節子以外の協力者の存在
八雲の著作物の中には、元となった書籍の内容が小学校卒の節子には理解できないと推察されるものがあり、彼女以外にハーンに協力した人物の存在が考えられる。1899年頃八雲と親交のあったフェノロサの妻メアリーは八雲に仏教説話を物語ったと述べている[26]。また 長男の小泉一雄に「母にとっての影武者」と呼ばれた三成重敬(みなり しげゆき)[27][注 3]や、八雲の死の翌年に「人間、ラフカディオ・ハーン」を著した雨森信成(あまもり のぶしげ)などの協力者がいたが、両人とも八雲の著作への貢献については黙している[27]。
晩年
家族・親族
生家 小泉家
- 父 - 小泉 八代目弥右衛門 湊(小泉湊)
- 母 - チエ(旧姓:塩見)
- 長兄 - 氏太郎
- 姉 - スエ
- 次兄 - 武松
- 長弟 - 藤三郎
- 次弟 - 千代之助
- 前夫 - 前田為二
- 夫 - 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)
- 長男 - 一雄(1893 - 1965。1917年に早稲田大学を卒業後、拓殖大学に就職したのち、横浜グランドホテル(関東大震災後は自然解散)の倉庫係に勤務した。エッセイストとして、『父小泉八雲』、『Father and I: Memories of Lafcadio Hearn』、『父「八雲」を憶う』など小泉八雲に関する多くの著書を残した)。
- 同妻 - 喜久恵(旧姓:輿水)
- 次男 - 稲垣巌(教師。母セツの養家であった稲垣家を継ぐ)
- 同妻 - 稲垣ミドリ(青森県、医師種市良一の娘)[33]
- 孫 - 明男(巌の長男)
- 孫 - 八重子(巌の長女)
- 孫 - 京子(巌の次女)
- 三男 - 清[34][35](1899 - 1962。画家)
- 同妻 - シズ(シヅ、静子とも)
- 孫 - らん子、閏、一枝、ゴーディ(清の子)
- 長女 - 寿々子(1903 - 1944。1904年、1歳のときに八雲が病死し、せつの元で育つ。せつの死後、長兄の一雄に引き取られ、亡くなるまで独身を通し続ける)
養家 稲垣家
- 養祖父 - 稲垣六代目万右衛門保仙(稲垣万右衛門)
- 養父 - 金十郎(1832 - 1900年)
- 養母 - トミ(1834 - 1912年)
