小泉荘 (越後国)
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11世紀後半に中御門流の藤原俊家の免田30町をもって成立、12世紀初めには既存の本荘とは別に加納が成立するなど荘域を広げ、最終的には荒川以北の岩船郡のほぼ全域を占めた[1][2]。ただし、瀬波河(現在の三面川及び支流の門前川)は鮭の産地として国衙領とされ、他にも荒河保など国衙領として残された地域が点在していたとみられている[1][2]。また、鎌倉時代後期には一部が関東御領となっている[2]。
12世紀には本家と領家(もしくは預所)が分離し、本家は金剛心院から新釈迦堂に移ったが[1][2]、領家は中御門家のままであった[1](ただし、庶流の一条家が一時期領家だったとする説もある[2])。
12世紀後半になると城氏がこの地域に進出するが[1]、同氏の没落後には秩父季長が地頭に任命されてその子孫が定着し、本荘には本庄氏が、加納には色部氏(加納内の色部条に由来)が成立した[1][2]。