山下三郎 (実業家)
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青年期の文章
神奈川県横浜市に[1]、「泥亀」、「船成金」などと称された山下汽船の創業者・山下亀三郎[2]の次男として生まれる[3]。
慶應義塾大学に学び、在学中には川端康成、室生犀星らと交わり、同人誌に短編小説発表するなどして、文学者としての将来を期待されたが、1931年に法学部を卒業すると、父の命に従い山下汽船に入った[1]。北原武夫らと文芸誌『新三田派』を創刊したが、直後に渡仏した[4]。山下の文筆活動は、卒業後もしばらく続き、1938年には短編集『室内』が出版された[5]。
山下と文学者たちとの交わりも続き、1938年10月から翌年3月にかけては、軽井沢を引き払って来た堀辰雄が、鎌倉に定住するまでの時期を、山下の逗子の別荘を借りて過ごしていた[6]。
実業家としての経歴
1938年、それまでの山下合名会社が株式会社に改組された際、山下三郎は、父・亀三郎社長、兄・太郎副社長の下で取締役となった[13]。
1947年、三郎は公職追放となり、山下汽船常務取締役の辞任を余儀なくされ、同年中に2人の弟である山下波郎、山下豊郎とともに、株式会社柏商店(現・カシワテック、テクノカシワ)を設立した[3][14]。カシワテックは三郎の長男・英郎の長男である山下義郎が社長を務めている[3][15]。分社であるテクノカシワの代表は山下興郎[16]。
1950年、公職追放令が解除されると1951年に山下汽船傘下の太平汽船社長となり、1954年に山下汽船常務取締役、1958年に専務取締役となって、1960年に山下汽船社長[14]、1964年の新日本汽船との合併後は山下新日本汽船社長となった[1]。
1973年には、山下新日本汽船会長となり[1]、同年から1975年にかけては、日本船主協会会長も務め、折からの第一次石油危機の事態に対処した[3]。