山口鋠
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山口鋠は安政3年12月17日(1857年1月12日)に幕臣の成澤良作の第三子として生まれる。1868年(明治元年)、義兄(姉の夫)で英学者の渡部温が沼津兵学校教授を務めていたため、幼少期を沼津で過ごした。1871年(明治4年)、東京に戻り、東京外国語学校でフランス語を専攻する。1880年(明治13年)1月、陸軍士官学校(旧4期)に入学し、1881年12月、卒業し陸軍歩兵少尉に任官する。歩兵第18連隊(名古屋)、歩兵第19連隊(名古屋)を経つつその間に中尉に昇任、陸軍戸山学校を経る[1]。
1892年(明治25年)、山口家に嫁いでいた姉の照子が亡くなると、山口家に養子に入り以降は山口姓を名乗る[1]。
1894年(明治27年)日清戦争に従軍した後、歩兵第17連隊(仙台)で中隊長を、1897年(明治30年)京城府守備隊長に補され渡韓。1899年(明治32年)に再度、戸山学校に入り、原隊復帰後に歩兵少佐に補される。歩兵第32連隊(山形)を経て1901年(明治34年)2月歩兵第5連隊第2大隊長に補される[1]。
1902年1月、八甲田山での雪中行軍中に遭難、救出されるも2月2日死去[1]。その経緯については多くの臆測や創作が流布しており、確実な死因は不明である。その最期を看取ったのは、奇しくも山口少佐の前任地だった山形の衛戍病院から遠路応援に駆け付けた中原貞衛軍医であり、彼は後に『第五連隊惨事 奥の吹雪』と題する韻文での手記[2]を著している。ここでの謎めいた記述が、山口の死因に関する多くの仮説を生む手掛かりともなっている。