東京府生まれ。陸軍中将・山室宗武の次男[2]。
大東亜戦争の勃発した前年の1940年(昭和15年)7月、第七回日米学生会議では、宮澤喜一(東京帝国大学)、山崎秀之(神戸商科大学)、苫米地俊博(東京商科大学)の3名と共に日本側学生として参加。総務委員長を務めたが、特高警察が「この国家非常時に、毛唐と一緒に騒ぎ立てるとは何事か」と叱責を受ける[3]。
三菱銀行入行以来、八重洲口、ニューヨークの各支店長、本店次長を経て調査、国際の両部長を歴任。三菱の国際化戦略を担当。頭取レースを伊夫伎一雄と争い、敗れるとダイヤモンドリースの会長に就いていたが、学校法人国際大学の理事長に就任。役員として任務に当たる。