山岡景助
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寛永13年2月6日(1636年3月13日)、13歳の時に将軍徳川家光に初めて拝謁する[1][2]。同20年(1643年)、小姓組の番士になる[1][2]。
慶安元年6月9日(1648年7月28日[2])、日比谷門付近を通行の際、松平右京大夫の家臣・稲田民部某が従者の不作法があった上、刀を抜いて敵対したため、景助がこの者を殺害。この一件で景助は蟄居処分となるが、詮議により景助の行動に理があるとして赦され、元の勤務に戻る[1][2]。
慶安3年(1650年)9月3日に西丸書院番士に転じ、後に江戸城本丸勤務に移る[1]。寛文9年(1669年)3月11日、小十人の番頭(ばんがしら)となる。同年7月19日(1669年8月15日)に、父・景次が致仕して、1000石の家督を継ぐ[1][2]。同年12月25日(1670年2月15日)、布衣の着用を許される[1][2]。
延宝9年[3]7月13日(1681年8月26日)、先手組鉄砲頭に就任[1][2]。同2年4月21日(1682年5月28日)に上野国邑楽郡の所領500石を加増され、禄高1500石となる。貞享元年12月26日(1685年1月30日)、盗賊追捕の役(火付盗賊改方)に就く[1][2]。
貞享4年(1687年)2月18日、長崎奉行に就任[1]。武蔵国足立郡・埼玉郡の所領500石を加増され、知行2000石となる[1]。元禄4年12月26日(1692年2月12日)、従五位下を叙任、対馬守を称す[1][2]。長崎奉行の在任中、長崎警備を担当する福岡藩・佐賀藩の藩兵が市中に宿泊する宿を、長崎の内町・外町で半分ずつ割り当てる案を、同僚の長崎奉行・川口宗恒と共に提示する[4]。
元禄7年(1694年)12月14日、職を辞して寄合になる[1]。同8年12月6日(1696年1月10日)、致仕する。この時、養い料として蔵米300俵を賜る[1]。宝永2年4月8日(1705年4月30日)に没する。享年82[1]。法名は隠市[1]。