山崎彰義
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1948年に中山・古賀嘉蔵厩舎で騎手見習、1952年に騎手となる[1]。1954年に東京・大久保末吉厩舎へ移籍し[1]、1957年10月6日の中山第3競走障害4歳未勝利・シンミノリが最後の勝利となり、1958年9月28日の中山第3競走障害4歳以上オープン・ホウヨウ(5頭中5着)を最後に現役を引退[2]。
引退後は東京の中村広厩舎(1959年 - 1967年)→山岡寿恵次厩舎(1968年 - 1976年)で調教助手を務め[1]、1977年に調教師免許を取得[1] [3]。
1978年3月1日に[1]美浦トレーニングセンターがオープンするにあたって厩舎の数を7つ増やすことになったため開業し、東京農工大学農学部獣医学科を卒業したばかりの国枝栄も助手として開業と共に入った[4]。
真面目な山崎は強い馬に積極的に関わりたいと考える人物ではなかったが、馬に対する接し方は丁寧であり、国枝の「無理な馬づくりをしない」という姿勢は、この時代に染み付いた[5]。
1年目の1978年は7月9日の中山第3競走障害7歳以上未勝利・ヒシランバー(13頭中10着)で初出走を果たすと、同馬で開業2走目となる8月26日の新潟第3競走で初勝利を挙げ、共に手綱は栗原洋一であった[6]。3走目となる9月24日の東京第1競走4歳未勝利では宮城産馬チヨダコウシュン[7]で平地初勝利を挙げ、同馬では4走目の10月7日の福島第2競走4歳200万下も勝利して開業初勝利から3連勝となり、平地2戦の手綱は共に坂井千明であった[6]。有馬記念を行われた12月17日の中山第4競走3歳新馬をタケノテンジンで勝利し[8]、初年度は4勝[9]をマーク。
2年目の1979年にはタケノテンジンが京王杯オータムハンデキャップでビンゴガルーの3着[10]に入り、開催時期の変更で「東北記念」に変更された七夕賞[11]を制して[12]重賞初勝利[13]を挙げる。
3年目の1980年には鹿児島生まれの九州産馬ギンザンが4連勝でセイユウ記念を制し[14]重賞2勝目[13]を挙げ、タケノテンジンでは京王杯スプリングハンデキャップ・京王杯オータムハンデキャップ・CBC賞3着[10]に入った。
1985年には競馬学校1期生の岩戸孝樹が所属騎手としてデビューし、インターグシケン産駒フミノルーキーが増沢末夫とのコンビで七夕賞・カブトヤマ記念・福島記念と全て3着[15]に入った。
1987年の新潟大賞典ではセッテジュノーがオークス馬トウカイローマンに勝利するが[16]、最後の重賞勝利[17]となった。
1990年にはタイジョイナーが岩戸とのコンビでラジオたんぱ賞ではツルマイアスワンの3着、牝馬東京タイムズ杯5着に入った[18]。
1991年にはフミノロックアップが岩戸とのコンビで新潟3歳ステークス5着[19]に入り、1994年4月23日には管理馬が1日3勝[20]を記録。
1998年4月11日の中山第2競走4歳未出走ではドクタークロスがドクタースパート産駒初勝利をもたらし、同馬では1999年1月24日の中山第7競走4歳以上500万下でも勝利するが、ドクタースパート産駒が中央で挙げた4勝中2勝は山崎の管理するドクタークロスであった[21] [22] [23]。
2001年3月11日の中山第10競走潮来特別・レッツファイトが最後の勝利[22]を挙げ、2002年2月23日の中山第8競走4歳以上500万下・マイネルロングラン(16頭中4着)が最後の出走[24]となり、同28日付で引退[1]。
調教師成績
| 通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 出走回数 | 勝率 | 連対率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 平地 | 244 | 264 | 264 | 2518 | 3290 | .074 | .154 |
| 障害 | 3 | 2 | 2 | 49 | 56 | .054 | .189 |
| 計 | 247 | 266 | 266 | 2567 | 3346 | .074 | .153 |
- 主な管理馬
- タケノテンジン(1979年東北記念)
- ギンザン(1980年セイユウ記念)
- セッテジュノー(1987年新潟大賞典)