山木検校
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二世山木検校
1800年生まれ。1854年1月23日没(「文久3年(1863年)に82才で没した」と記述している資料もある[3])。都名は大賀一。前名奥島勾当。幼名太吉。芝愛宕町の質屋笠井太郎兵衛の次男として生まれる。1819年、木村検校松州一(初世山木検校)のもとで登官、二世山木となり芝桜田伏見町に住んだ。美声家と伝えられる。作曲に「寿くらべ」「子の日の遊」「夏の詠」などがあり、一中節の「吉原八景」「賤機」などを一中節・箏歌掛合物として移したとも伝えられる。さらに京風手事物に山田流の手をつけた曲も何曲かあるという。また、作歌の「ほととぎす」の「雲井に遠き」と「待乳山」との間の合の手の三味線の手を現在弾いているように改作したり、また「住吉」の合の手などで弾かれるテンレレレンの三ツ指の技巧を考案したのは、いずれも二世山木であろうといわれている。平曲も堪能で、和歌も幸根と号して好んだ。[1][2]
三世山木検校
四世山木千賀
1846年6月30日生まれ。1921年6月2日没。前名は山林勾当。本名小林勝太郎。本所中ノ郷の呉服商小林治郎左衛門の長男として生まれる。二歳で失明し八歳で二世山木検校のもとに入門。しかし翌年に二世が没し、その後三世山木検校に師事。三世には非常に可愛がられ、特に歌を別扱いに稽古したといわれる。富本節、河東節、一中節、長唄、それに小唄の類まで諸音曲を学んだ。三世の没後、四世山木を襲名して山木千賀と名乗る。妻は三世門下で二世木村検校の娘であった浪子で、山木花子と名のり、四世の没後、山木の家元をあずかっていた。非常に作品が多く、「天長節」「千代の寿」「皇国の栄」「清華園」「頼光」「御旗の勲功」「金剛石」「葉山八景」「春の栄」「磯山」「忍ぶ草」「常盤」「まがきの菊」「三九年川」(町田杉勢と合作)、「四季の遊」(三世山登松齢作曲の同名曲とは別)、「皇国の光」などがあり、また富本節の影響作である「稀の寿」を作曲、「六玉川」、「桜七本」などの富本節の曲の摂取も行ったとする説もある。なお、1882年刊の「吾妻箏譜二編」の編集に参加、その増補版には四世山木の作品の追加が多い。門下に初世藤井千代賀、初世越野栄松などの名手が出た。人物は江戸っ子風のこだわらない性格で、人付き合いもよく、それでいてごく上品であったそう。そのため当時の皇族、華族、諸富豪のもとに出入りして、お稽古をすることができ、名家のお稽古といえば、山田流ならばまず四世山木というほどだったといわれる。魚釣りが道楽で盲人ながら上手かったと言われる。また、住居が浅草竹町にあったことから、通称を「竹町」と呼ばれていた。[1][2]