山本昭一
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9歳の時に尾崎将司の出演する番組を見てゴルフに憧れ、その年の正月にお年玉をはたいて980円の6番アイアンを買うと、翌年からミズノのアイアンを少しずつ買い集め、フルセットに揃えた[1]。
大垣市立南中学校[2]時代は野球少年であったが、監督の采配に抗議したことで関係が悪化し退部[1]。かねてより興味を抱いていたゴルフへの転向を決意すると[1]、卒業後すぐに養老カントリークラブの研修生となり[1]、現在も所属[2]。
1985年にプロ入りし[2]、1986年の関西プロでは初日を吉野展弘・山本己沙雄・日下敏治と共に3アンダー69の8位タイ[3]でスタートした。
1987年の中部オープンでは出口栄太郎・伊藤正己・塩田昌宏・石井裕士・中村忠夫・時田陽充に次ぐと同時に高阪喜久・内田繁と並んでの7位タイ[4]、1989年のよみうりサッポロビールオープンでは3日間全て70をマークして[5]山本善隆・金子柱憲・室田淳と並んでの7位タイ[6]に入った。
1989年のNST新潟オープンでは初日を22位タイ[5]でスタートし、2日目25位タイ→3日目30位タイ[5]と後退するが、最終日には67をマークして[5]川俣茂・中山徹と並んでの6位タイ[7]に浮上。
1989年のゼンリン福岡オープンでは松永一成・日下に次ぐと同時に池原厚・塩田昌宏と並んでの4位タイ[8]、1990年の中部オープンでは5位[9]に入った。
1994年の三菱ギャランでは吉村金八、ブライアン・ワッツ&デビッド・イシイ(アメリカ)、カルロス・フランコ(パラグアイ)、エドアルド・エレラ(コロンビア)、谷口徹・河村雅之と並んでの9位タイに入った[10]。
1994年のヨネックスオープン広島では3日目に67をマークして前日の53位タイから[11]芹澤信雄、スチュアート・ジン(オーストラリア)、ゾー・モウ(ミャンマー)、ウェイン・レビ(アメリカ)、白浜育男・米山剛・奥田靖己と並んでの16位タイ[12]に浮上し、最終日にはジン・レビと共に丸山智弘・桑原将一、トッド・ハミルトン(アメリカ)、陳志忠(中華民国)と並んでの8位タイ[13]に入った。
1994年のNST新潟オープンでは東聡・鈴木弘一・金子柱憲と並んでの6位タイ[14]に入り、カシオワールドオープンは1.5ラウンドで棄権している[15]。
1996年には中部オープンで初優勝し[2]、ミズノオープンでは4日間中3日間60台をマークして[16]高見和宏、ピーター・マックウィニー(オーストラリア)と並んでの10位タイ[17]に入った。
1997年には千葉オープン・後楽園カップ(第1回)・松ケ峯オープンで優勝し[2]、1999年にはデサントチャレンジカップでは野上貴夫・中山と並んでの6位タイ[18]に入り、2000年には中部オープン2勝目[2]を挙げる。
2000年にはファイナルQTランク54位の資格でツアー参戦し、ツアー会場ではシード選手の溝口英二らと行動を共にし、NST新潟オープンでは4バーディ、ノーボギーの68で回って5位タイでスタートした[1]。サン・クロレラクラシックでは初日を7アンダー2位タイでスタートし、2日目には6番ホールから3連続バーディを奪って首位に浮上[19]。最終日には「できるだけ前半のうちに伸ばす」との信念通りに1番パー4で2mを沈めてバーディ発進を決め、5番の尾崎将のチップインイーグルでの逆転こそあったが、14番パー3でボギーを打った尾崎将に対し、10mのバーディパットを沈めて再び逆転[20]。プレーオフでは18番の第2打で薄い当たりのローボールが思惑通りにグリーンエッジまで残り39ヤードまで運んできたが、逆に災いし、ダウンヒル、距離の計算のしづらい洋芝で中途半端な距離からの第3打はピン奥、ラフとグリーンの境目に打ちこんでパーに終わり、バーディを奪った尾崎の前に屈して2位に終わった[20]。幼い頃から憧れの人である尾崎将とグリーンサイドで握手を交わしたと時には「お前は良くなっている、優勝は近いぞ」と声をかけられ、尾崎将も「あれで、なんで今まで勝てなかったのか、と思うくらいしっかりとしたゴルフをしていた」と最終日の山本を誉めた[20]。
体調不良で欠場した田中秀道の代役で出場したカシオワールドオープンでは練習ラウンド無しのぶっつけ本番で回ったが、初日には山本がゴルフを憶えて、テレビを見ていたときのスーパースターである青木功、ベルンハルト・ランガー(ドイツ)というビッグネームに挟まれて物凄く緊張しながらも、4アンダーの6位タイと大健闘する[15]。
初シード入りした2001年の序盤はショットとパットの両方がうまくかみ合わず、7戦出場して予選通過が僅か1回と低迷[21]。フジサンケイクラシックでは2日目に5オーバー68位からのスタートも、16番までノーボギーの3アンダーとまくるなど復調の兆しが見えたが、上がり2ホールでダボ、ボギーと前半の貯金を一気に使い果たし、1打差で予選通過はならなかった[21]。日本プロは頭に血が昇ったまま臨んで予選落ちしたが、返って開き直り、「細かいことを考えても仕方ない」と自身の持ち味であるショートゲームを生かして勝負してみよう、というプランを立てる[21]。マンシングウェアオープン KSBカップの2日目には12番で7mのパットが決まるなどプランがはまって68をマークし[21]、手嶋多一、シェイン・テイト(オーストラリア)、ディネッシュ・チャンド(フィジー)と並んでの首位タイ[22]に浮上。
2011年のANAオープン[23]を最後にレギュラーツアーから引退。
シニア転向後の2015年には三重県シニアオープンで5バーディー、1ボギーの4アンダーで2位と3打差付けて圧勝し、同大会では2016年に3人のプレーオフを制して2連覇、2017年には堂々の4アンダーで3連覇を達成[24]。
シニアプロの活動の傍ら、ツアープロ完全マンツーマン個別レッスンスクール「ベーシックワンゴルフ」インストラクター[25]、岐阜県揖斐郡大野町の練習場「ベリーズゴルフクラブ」[26]、羽島市の「日興ゴルフクラブCUE」[27]でも指導。