山本昭一

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生誕 (1964-06-25) 1964年6月25日(61歳)
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県
山本 昭一
Shoichi YAMAMOTO
基本情報
生誕 (1964-06-25) 1964年6月25日(61歳)
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県
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山本 昭一(やまもと しょういち、1964年6月25日 - )は、静岡県出身のプロゴルファー

9歳の時に尾崎将司の出演する番組を見てゴルフに憧れ、その年の正月お年玉をはたいて980円の6番アイアンを買うと、翌年からミズノのアイアンを少しずつ買い集め、フルセットに揃えた[1]

大垣市立南中学校[2]時代は野球少年であったが、監督の采配に抗議したことで関係が悪化し退部[1]。かねてより興味を抱いていたゴルフへの転向を決意すると[1]、卒業後すぐに養老カントリークラブの研修生となり[1]、現在も所属[2]

1985年にプロ入りし[2]1986年関西プロでは初日を吉野展弘山本己沙雄日下敏治と共に3アンダー69の8位タイ[3]でスタートした。

1987年中部オープンでは出口栄太郎伊藤正己塩田昌宏石井裕士中村忠夫時田陽充に次ぐと同時に高阪喜久内田繁と並んでの7位タイ[4]1989年よみうりサッポロビールオープンでは3日間全て70をマークして[5]山本善隆金子柱憲室田淳と並んでの7位タイ[6]に入った。

1989年のNST新潟オープンでは初日を22位タイ[5]でスタートし、2日目25位タイ→3日目30位タイ[5]と後退するが、最終日には67をマークして[5]川俣茂中山徹と並んでの6位タイ[7]に浮上。

1989年のゼンリン福岡オープンでは松永一成・日下に次ぐと同時に池原厚塩田昌宏と並んでの4位タイ[8]1990年の中部オープンでは5位[9]に入った。

1994年三菱ギャランでは吉村金八ブライアン・ワッツ&デビッド・イシイアメリカ)、カルロス・フランコパラグアイ)、エドアルド・エレラコロンビア)、谷口徹河村雅之と並んでの9位タイに入った[10]

1994年のヨネックスオープン広島では3日目に67をマークして前日の53位タイから[11]芹澤信雄スチュアート・ジンオーストラリア)、ゾー・モウミャンマー)、ウェイン・レビ(アメリカ)、白浜育男米山剛奥田靖己と並んでの16位タイ[12]に浮上し、最終日にはジン・レビと共に丸山智弘桑原将一トッド・ハミルトン(アメリカ)、陳志忠中華民国)と並んでの8位タイ[13]に入った。

1994年のNST新潟オープンでは東聡鈴木弘一金子柱憲と並んでの6位タイ[14]に入り、カシオワールドオープンは1.5ラウンドで棄権している[15]

1996年には中部オープンで初優勝し[2]ミズノオープンでは4日間中3日間60台をマークして[16]高見和宏ピーター・マックウィニー(オーストラリア)と並んでの10位タイ[17]に入った。

1997年には千葉オープン・後楽園カップ(第1回)・松ケ峯オープンで優勝し[2]1999年にはデサントチャレンジカップでは野上貴夫・中山と並んでの6位タイ[18]に入り、2000年には中部オープン2勝目[2]を挙げる。

2000年にはファイナルQTランク54位の資格でツアー参戦し、ツアー会場ではシード選手の溝口英二らと行動を共にし、NST新潟オープンでは4バーディ、ノーボギーの68で回って5位タイでスタートした[1]サン・クロレラクラシックでは初日を7アンダー2位タイでスタートし、2日目には6番ホールから3連続バーディを奪って首位に浮上[19]。最終日には「できるだけ前半のうちに伸ばす」との信念通りに1番パー4で2mを沈めてバーディ発進を決め、5番の尾崎将のチップインイーグルでの逆転こそあったが、14番パー3でボギーを打った尾崎将に対し、10mのバーディパットを沈めて再び逆転[20]。プレーオフでは18番の第2打で薄い当たりのローボールが思惑通りにグリーンエッジまで残り39ヤードまで運んできたが、逆に災いし、ダウンヒル、距離の計算のしづらい洋芝で中途半端な距離からの第3打はピン奥、ラフとグリーンの境目に打ちこんでパーに終わり、バーディを奪った尾崎の前に屈して2位に終わった[20]。幼い頃から憧れの人である尾崎将とグリーンサイドで握手を交わしたと時には「お前は良くなっている、優勝は近いぞ」と声をかけられ、尾崎将も「あれで、なんで今まで勝てなかったのか、と思うくらいしっかりとしたゴルフをしていた」と最終日の山本を誉めた[20]

体調不良で欠場した田中秀道の代役で出場したカシオワールドオープンでは練習ラウンド無しのぶっつけ本番で回ったが、初日には山本がゴルフを憶えて、テレビを見ていたときのスーパースターである青木功ベルンハルト・ランガードイツ)というビッグネームに挟まれて物凄く緊張しながらも、4アンダーの6位タイと大健闘する[15]

初シード入りした2001年の序盤はショットとパットの両方がうまくかみ合わず、7戦出場して予選通過が僅か1回と低迷[21]フジサンケイクラシックでは2日目に5オーバー68位からのスタートも、16番までノーボギーの3アンダーとまくるなど復調の兆しが見えたが、上がり2ホールでダボ、ボギーと前半の貯金を一気に使い果たし、1打差で予選通過はならなかった[21]日本プロは頭に血が昇ったまま臨んで予選落ちしたが、返って開き直り、「細かいことを考えても仕方ない」と自身の持ち味であるショートゲームを生かして勝負してみよう、というプランを立てる[21]マンシングウェアオープン KSBカップの2日目には12番で7mのパットが決まるなどプランがはまって68をマークし[21]手嶋多一、シェイン・テイト(オーストラリア)、ディネッシュ・チャンドフィジー)と並んでの首位タイ[22]に浮上。

2011年ANAオープン[23]を最後にレギュラーツアーから引退。

シニア転向後の2015年には三重県シニアオープンで5バーディー、1ボギーの4アンダーで2位と3打差付けて圧勝し、同大会では2016年に3人のプレーオフを制して2連覇、2017年には堂々の4アンダーで3連覇を達成[24]

シニアプロの活動の傍ら、ツアープロ完全マンツーマン個別レッスンスクール「ベーシックワンゴルフ」インストラクター[25]岐阜県揖斐郡大野町の練習場「ベリーズゴルフクラブ」[26]羽島市の「日興ゴルフクラブCUE」[27]でも指導。

主な優勝

脚注

外部リンク

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