山本益博
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東京都出身。東京都立紅葉川高等学校、北海道札幌東高等学校を経て、早稲田大学第二文学部演劇学科卒業[1]。東京 浅草に育つが、高校時代に北海道に転居し、1968年(昭和43年)3月に大学進学のため、再び東京に戻った。生家は靴下問屋を営んでいた(現在は廃業している)
東京に戻った山本は、たまたま国立劇場小劇場の第五次落語研究会第一回(昭和43年3月14日)に入場し、そこで初めて桂文楽 (8代目)(黒門町)の落語を体験し、黒門町の追っかけとなった[2]。大学の卒業論文のテーマも桂文楽としたが、その論文はそのまま『桂文楽の世界』として商業出版された[3]。大学卒業後は、落語界に知己の多い小沢昭一が主宰し、芸能研究雑誌の季刊『藝能東西』を刊行していた「新しい芸能研究室」に入社し、主に落語の評論を行った。朝日新聞夕刊と週刊朝日の演芸評を担当。
文楽死後に、『さよなら名人芸』(1974年)と、『笑いのアンコール 落語評論家宣言』(1980年)を出版。自身を落語評論家だと宣言した。KTVの演芸番組「花王名人劇場」ではプロデューサーを務めていた[4]。テレビ朝日「ザ・テレビ演芸」の「飛び出せ!笑いのニュースター」コーナーでは審査員としてダウンタウン(当時・ライト兄弟)らを審査。
一方で、料理評論の著書も数多く手がけ、1980年代にはグルメブームの先駆け的存在として知られた。1980年に出版された『東京・味のグランプリ200』は、東京のレストランを無印から最高評価の3つ星まで4段階評価するもので、当時としては、画期的なレストランガイド本であり、一世を風靡した。ただし、山本一人が全部執筆したわけではなく、他の協力スタッフもいたが、協力スタッフの名前は記されていない。
料理人の料理への技巧を「仕事」と表現した先駆者でもある。2001年、フランス農事功労勲章シュヴァリエ、2014年同オフィシエを受勲した[5]。