山本省吾

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1978-05-28) 1978年5月28日(47歳)
身長
体重
178 cm
78 kg
山本 省吾
ソフトバンク現役時代。 2013年3月16日、横浜スタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 石川県金沢市
生年月日 (1978-05-28) 1978年5月28日(47歳)
身長
体重
178 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 2000年 ドラフト1位(逆指名)
初出場 2001年5月28日
最終出場 2013年4月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

山本 省吾(やまもと しょうご、1978年5月28日 - )は、石川県金沢出身の元プロ野球選手投手)。

妻は元レースクイーン中村真由美

プロ入り前

1978年生まれ。石川県金沢市出身。

星稜中学校では1年時に全日本少年軟式野球大会へ出場、2、3年時には2年連続で全国中学校軟式野球大会に出場し、3年時の第15回大会では優勝。

星稜高等学校では1年夏から3季連続で甲子園出場。1年時に第76回全国高等学校野球選手権大会に2番手投手として出場。2年時にはエースとして第67回選抜高等学校野球大会第77回全国高等学校野球選手権大会に出場し、春はベスト8、夏は3回戦で吉年滝徳を擁する関西高校を、準決勝で庄田隆弘を擁する智弁学園高校を破って石川県勢初の決勝進出。帝京高校相手に敗れたものの、全試合完投で準優勝した。

また高校1、2、3年と全ての学年で高校日本代表に選出され、国際大会に出場している。

高校卒業後は慶應義塾大学総合政策学部(SFC)へ進学。1年春から登板し、主将・高橋由伸のもと優勝。1年秋には防御率0.65でリーグトップ。4年秋には勝ち点を挙げた方が優勝という20世紀最後の早慶戦で第1、3戦に完投して優勝、そのまま明治神宮野球大会も制し大学日本一。

東京六大学野球リーグ戦通算55試合登板、2114防御率2.23、307奪三振。早慶戦は6勝無敗と無類の強さを見せた。

2000年度ドラフト会議大阪近鉄バファローズから1位指名(逆指名)を受けて入団(社会人野球等を経由せず慶應義塾大学名でのドラフト指名としては山本が初のプロ入団投手となった[1])。

近鉄時代

2001年は近鉄がパリーグを制したが、目立った活躍はできず。

2002年はプロ初勝利を含む4勝を挙げ、56試合に登板して防御率2.52とリリーフとして台頭。

2003年先発、リリーフ併用も、25試合の登板で防御率5.49と振るわず未勝利に終わった。

2004年はリリーフとしてスタートするも、シーズン後半に先発起用され、3勝1敗、防御率2.78と結果を残した。9月15日の対ロッテ戦(千葉マリンスタジアム)は、近鉄球団にとって関東での最終試合だったが、この試合で先発を務め、8回途中無失点の好投で3勝目を挙げ、近鉄の関東最終戦を勝利で飾った。一軍公式戦が終わった後の9月30日には藤井寺球場での最終試合となるウエスタン・リーグ優勝決定戦(対中日ドラゴンズ)に先発したが4回4失点で降板し、チームは6-12で敗れ、これが近鉄球団の最後の公式試合となった。同年オフの球団合併に伴う分配ドラフトを経て、オリックス・バファローズへ移籍。

オリックス時代

2005年は春先に先発として登板したが、その後はリリーフでの起用が多くなり、2006年はシーズン終盤にプロ初セーブを含む2セーブを記録するなど、35試合に登板して防御率3.99を記録。

2007年は7月に昇格すると、主にロングリリーフとして19試合に登板し、防御率1.62の好成績を収めた。9月17日の対ロッテ戦では、延長12回裏・1死満塁の場面で、三塁走者・北川博敏代走として出場。2死になってから、木元邦之のサヨナラ適時打で初得点となる決勝点を踏んだ。

2008年は10勝と躍進。中継ぎとして開幕を迎えたが、4月1日の対西武戦で光原逸裕が1死も取れず降板したため2番手で登板すると5回無失点に抑え、その間に味方打線が逆転して同年初勝利。その後4月8日の対ソフトバンク戦から先発ローテーション入り。4月23日の対日本ハム戦ではプロ初完投・初完封勝利を挙げ[2]、最終的に10勝6敗、防御率3.38の成績を挙げ、初の規定投球回到達と2桁勝利を達成。また、規定投球回に達した投手の中では杉内俊哉成瀬善久と並んでリーグ最少の38四死球と制球の良さを見せた。本拠地である京セラドーム大阪スカイマークスタジアムでは4勝ずつを挙げ、クライマックスシリーズ進出を争った日本ハムから4勝、ロッテから3勝を挙げ、チームの9年ぶりとなるAクラス入りに貢献した。同年はプロ入り時の監督でもある梨田昌孝による監督推薦でオールスターゲームにも初出場し、2回を無安打無失点に抑えてベストピッチャー賞を受賞した。

2009年は開幕から前年同様にチーム唯一の先発左腕としてほぼ1年間ローテーションを守り抜いた。2年連続2桁勝利は逃したが、9勝7敗で2年連続規定投球回到達。

2010年も開幕ローテーション入りし8勝10敗。交流戦では4戦4勝、防御率1.82の好成績を挙げ、チームの交流戦初優勝に貢献した。

横浜時代

横浜時代
(2011年3月19日、横須賀スタジアム)

2010年12月16日、高宮和也寺原隼人との2対2のトレードで、喜田剛とともに横浜ベイスターズへ移籍。背番号は15

2011年はトレードでの移籍1年目にもかかわらず4月12日の対中日戦で自身初の開幕投手を務めた。開幕直後から中4日を務めるなど、低迷が続くチームでローテーションを任されたが打ち込まれるケースが目立ち、最終的に2勝11敗、防御率5.92に終わった。

2012年はオープン戦から好調を維持し、4月11日の対ヤクルト戦で球団名が横浜DeNAベイスターズに変わってから球団初の完封勝利を収める。但し、この試合は降雨コールド(6回表途中)で、9回を投げきっての球団初完封勝利は翌日4月12日に三浦大輔が挙げている。また、この完封は自身にとっても3年ぶりとなる完封で、その3年前の完封の相手は当時の横浜ベイスターズでしかも降雨コールドだった[3]。しかしその後は勝ち星がなく、そのままシーズンを終えた。

ソフトバンク時代

2012年11月5日、神内靖多村仁志吉川輝昭との3対3のトレードで、吉村裕基江尻慎太郎とともにソフトバンクへ移籍[4]。背番号は38

2013年はオープン戦で好投し、開幕を一軍で迎えるが、左肘の故障で7月4日に神奈川県内の病院で左肘関節の鏡視下骨棘(こっきょく)・滑膜切除術を受けた[5]。10月9日に球団から戦力外通告[6]。通告後の11月10日に第1回合同トライアウトへ参加した。

引退後

2014年からは福岡ソフトバンクホークスのスカウトへと転身。2014年から2022年までは東海・北信越地区担当、関東地区担当、チーフ補佐(全国担当)を歴任。

2023年からはスカウティングスーパーバイザーに着任。アマチュア、プロ、国際と、国内外を問わずスカウティング業務全般にわたってチーム編成に携わっている。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
2001 近鉄 70000000------325.2124301800111117.472.65
2002 560000410--.80016039.13621131341111112.521.19
2003 254000010--.00017841.05571000280025255.491.59
2004 144000310--.75015735.23951301270111112.781.46
2005 オリックス 22200020011.00013128.1395900211019196.041.69
2006 3500000022----12829.1364921181013133.991.53
2007 1900001105.50011127.22706112021651.631.19
2008 302222210602.625645154.2166113008901160583.381.27
2009 27263109700.563685159.21761847041101084754.231.40
2010 232200081001.444478107.0143192008793071655.471.52
2011 横浜
DeNA
211400021100.15436279.099102504500257525.921.57
2012 661111400.20015434.13651511150018174.461.49
2013 ソフトバンク 200000000----101.2322001002210.803.00
通算:13年 2871006434042211.4883231743.1867922007305011063883644.411.44
  • 横浜(横浜ベイスターズ)は、2012年にDeNA(横浜DeNAベイスターズ)に球団名を変更

表彰

記録

投手成績
打撃成績
その他の記録

背番号

  • 18 (2001年 - 2004年)
  • 20 (2005年 - 2010年)
  • 15 (2011年 - 2012年)
  • 38 (2013年)

脚注

関連項目

外部リンク

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