鈴木隆 (投手)

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1933-09-22) 1933年9月22日
没年月日 (2024-05-31) 2024年5月31日(90歳没)
鈴木 隆
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福島県田村郡三春町
生年月日 (1933-09-22) 1933年9月22日
没年月日 (2024-05-31) 2024年5月31日(90歳没)
身長
体重
175 cm
64 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1958年
初出場 1958年4月6日
最終出場 1968年8月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 大洋ホエールズ
    横浜大洋ホエールズ (1969 - 1976, 1985 - 1986)

鈴木 隆(すずき たかし、1933年9月22日 - 2024年5月31日)は、福島県田村郡三春町[1]出身のプロ野球選手投手)・コーチ解説者

田村高卒業後は中央大学に進学し、伊藤芳明穴吹義雄と同期になり、投手外野手の2役をこなす。東都大学リーグでは1953年春季に優勝を飾り、同年の大学全日本選手権は決勝で立大に敗れて準優勝に終わる。

大学卒業後は川崎トキコに入社し、チームメイトに久保吾一国鉄)がいた。社会人時代から評判の左腕で、1956年から日本コロムビアの補強選手として都市対抗に2年連続出場。

1957年秋にデトロイトで行われた第3回アマチュア世界野球大会に日本代表として参加し、4試合連続リリーフで優勝に導くと共に大会MVPを獲得すると、メジャー球団のスカウトからも注目を浴びる。帰国後は多くの球団からスカウトされ、巨人が最も熱心で鈴木自身も入団に前向きであったが、それを翻して1958年大洋ホエールズへ入団[1]。その理由について、「12球団からスカウトが来たが、中部謙吉オーナーの『大洋は今は一番弱い。しかし、巨人に勝てるチームにしたいんだ』の言葉で入団を決意した。強い者に勝つというオーナーの心意気が気に入った」とNHKのテレビ番組『ドキュメントスポーツ大陸・よみがえる熱球プロ野球70年、第3集・三原魔術』で語っている。

シャイで職人肌の反面マウンドでは非常に気性が荒く、キレの良い球で内角をグイグイ突くピッチングで、1年目の1958年から主戦投手として活躍。2試合目の登板である4月8日の巨人戦で、プロ初勝利を初完投・初完封で飾る。同年は秋山登に次ぐ58試合に登板し15勝、防御率2.72(リーグ8位)の成績を挙げた。

同年から1960年までオールスターゲームにも3年連続出場を果たし、2年目の1959年には12勝を挙げた。

1960年からは三原脩監督の意向で先発からリリーフに転向し、当初は「先発完投こそ投手」と転向に対して不満を持っていたが、次第に三原野球における自身の役割を理解し、最終的にはやりがいを感じるようになる。6月1日の巨人戦では、王貞治から始まり8者連続奪三振のセ・リーグ記録を達成した。シーズンの成績は5勝11敗であったが、大洋は6年連続最下位からチーム初のリーグ優勝を果たす。大毎との日本シリーズでは第1戦に先発するが、1回にいきなり1安打1四球を与え秋山登に交代。第3戦にも先発し今度は4回まで無失点に抑える。5回に柳田利夫に2点本塁打を喫し降板するが、チームの4連勝に貢献、日本シリーズ初優勝に力を添えた。

1964年にはリーグ最多の70試合に登板するが、1966年東京オリオンズへ移籍[1]

1968年には大洋に復帰したが、勝ち星を挙げる事が出来ず、同年限りで現役を引退[1]

引退後は大洋で一軍投手コーチ(1969年 - 1970年)、二軍投手コーチ(1971年 - 1972年1975年 - 1976年1985年)、二軍チーフコーチ(1973年)、二軍監督(1974年)、二軍チーフ兼投手コーチ(1986年)、スカウト(1987年 - 1993年)を務めた。その間の1971年には球界を震撼させた黒い霧事件で謹慎処分を受け、1度目の退団後はニッポン放送ショウアップナイター」・テレビ神奈川TVKハイアップナイター」解説者(1977年 - 1984年)を務めた。

2度目のコーチ退任後となる1987年からはスカウト兼任で、再びテレビ神奈川解説者を務め、1991年までは同じく神奈川を本拠地としていたロッテ戦も担当。1994年からは専任となり、2005年勇退。

解説業の傍ら、秋山が会長を務めるホエールズOB会副会長も歴任。

2024年5月31日に老衰のため死去。90歳没[2]

人物

  • 三原が投手交代のためマウンドに来ると、ボールを渡さず逃げ回り、三原を苦笑させた。鈴木のジョークであったが、対戦相手には内輪揉めしているように見えたという。
  • 中央大時代に早稲田実業高校とよく練習試合をしていて癖を知っていたこともあり、王に強く、上記8連続奪三振も8人目は王であった。また、鈴木が登板している試合で初回にチャンスを迎えた時に第1打席から代打を送られたり、1960年7月15日には王が鈴木相手に22年の選手生活で唯一のスクイズバントをした。1962年7月1日の対大洋戦で王が一本足打法を試合で使う決心をするきっかけも、前日鈴木に抑え込まれた事であった。一本足打法によって王は大ブレイクを遂げ、鈴木もこの年初めて王に本塁打を許した。また、1964年9月6日南海野村克也が持っていたシーズン本塁打記録に並ぶ第52号を許した[3]。しかしながら、それでも鈴木が移籍するまでの4シーズンで王に許した本塁打は僅か6本、通算対戦成績は85打数21安打22三振で、対戦打率は.247、安打より三振が僅かに上回っており、王に対し、好相性であった。
  • TVK解説者時代は大洋の低迷期であり、同時期に解説を務めていた穏やかな秋山とは対照的に中継ではチーム状況や選手のプレーに度々苦言を呈したり、喝を入れるような厳しい話しぶりが名物であった。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1958 大洋 582912301518----.4551081260.12342481881970194792.731.21
1959 493110301216----.4291075260.122824900615750102933.221.22
1960 4618110511----.313662160.11411453721124057522.921.21
1961 5135402813----.381816190.01931773561122088713.361.40
1962 5631751148----.636769191.11511445191570069542.541.02
1963 5929000817----.320901213.12031280281162094803.381.33
1964 701500098----.529627151.0147114742610059543.221.28
1965 38100042----.66719648.04342012320013132.441.31
1966 東京 351400026----.25039083.293173969610050424.521.58
1967 41400042----.66723352.25692035341029284.781.44
1968 大洋 16100001----.0006814.2183703100015137.981.70
通算:11年 5192083412381102----.44368181625.21507149555376010491416705793.211.27
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

背番号

  • 16 (1958年 - 1968年)
  • 61 (1969年 - 1976年)
  • 71 (1985年 - 1986年)

脚注

関連項目

外部リンク

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