山科教言
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正平元年/貞和2年(1346年)内蔵頭に任じられ、正平14年/延文4年(1359年)従三位に叙せられる。元中6年/康応元年(1389年)権中納言に任じられるが、翌元中7年/明徳元年(1390年)4月14日に職を辞す。
応永2年(1395年)6月26日に出家し、法名を常言と称した[1]。
応永12年(1405年)5月14日、邸宅が焼失。この火事によって、それ以前の山科家歴代の日記・文書などは失われた[1]。
応永17年(1410年)12月15日、薨去。享年83[1]。なお、『公卿補任』には没年を応永16年とするが、翌年に書かれた自筆の日記が現存している。
経済的手腕に富んでいたとされ、教言の時期以後京都に搬入される食料品関係の座のいくつかが山科家を本所とするようになる。以後、山科家は代々内蔵頭を歴任するようになった。