山角定勝 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 享禄2年(1529年)死没 慶長8年5月8日(1603年6月17日)別名 刑部左衛門尉 凡例山角定勝時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 享禄2年(1529年)死没 慶長8年5月8日(1603年6月17日)別名 刑部左衛門尉戒名 宗覚墓所 相模国厚木の法雲寺→江戸正泉寺[1]官位 紀伊守主君 北条氏康→氏政→氏直→徳川家康氏族 山角氏父母 父:山角定次妻 松田康長の娘子 政定、盛繁、長定、正勝、娘(松田康郷室)テンプレートを表示 山角 定勝(やまかど さだかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士。後北条氏、徳川氏の家臣。 享禄2年(1529年)、山角定次の子として誕生[1]。刑部左衛門尉、後に紀伊守と称した。 北条氏政の側近を務め、その子・氏直の代に奉行人・評定衆として活躍した。永禄4年(1561年)から天正18年(1590年)まで間に彼が奉じた虎朱印状が多数現存している[1]。また、元亀2年(1571年)には相模足柄城の普請奉行を務めている[1]。 天正10年(1582年)、徳川家康と氏直が講和し、家康の娘・督姫が氏直と婚姻する際に媒酌を務め、天正14年(1586年)には家康への使者として派遣されている[1]。天正18年(1590年)の小田原征伐で小田原城が開城した後は、氏直に従い高野山に上った。翌19年(1591年)に氏直が没した後は、徳川家康に仕えて相模国で1200石を与えられている[1]。 隠居してのち慶長8年(1603年)、死去。墓所は相模国厚木の法雲寺、のちに江戸正泉寺に改葬された[1]。嫡男・政定、次男・盛繁も徳川家康に旗本として仕えた[1]。 山角氏所縁の鎌倉大長寺に、定勝の室が釈迦涅槃図を寄進した記録が残る。 脚注 [脚注の使い方] 1 2 3 4 5 6 7 8 下山治久『後北条氏家臣団』東京堂出版、2006年、672-674頁。ISBN 4-490-10696-3。 出典 『戦国の魁早雲と北条一族―北条五代百年の興亡の軌跡』新人物往来社、2005年、ISBN 4404033168 『歴史群像シリーズ14 真説戦国北条五代 早雲と一族、百年の興亡』(1989年、学習研究社) ISBN 405105151X Related Articles