岩崎・渡辺コレクション
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実業家の子息であった岩崎輝弥と渡辺四郎が写真家の小川一真や小川の門弟を引き連れて日本各地の鉄道を巡って撮影を行った蒸気機関車の写真を主とした写真コレクションである[1]。コレクションは、写真原板、写真絵葉書、写真アルバム、図書などからなる[3]。
コレクション寄贈時は、写真原板が約3,500点、写真絵葉書が約3,000点などであった[1]。戦後の一時期、保存環境と管理体制が不十分であったため一部の原板が破損・損失し、現在は写真原板3,347点が残っている[3]。ガラス原板のサイズはキャビネット判(163×120mm)、4×5判(128×102mm)、手札判(108×84mm)が混在している[3]。
このうち撮影対象が同定されているものは、1,681点[4]。主な内訳は、官設鉄道の車両の写真が490点、私設鉄道の写真が880点である[4]。私設鉄道は、日本鉄道、関西鉄道、山陽鉄道、北海道炭礦鉄道など鉄道国有法の対象となった大手私鉄、伊予鉄道、竜崎鉄道、豆相鉄道(現:伊豆箱根鉄道)、上野鉄道(現:上信電鉄)、祐徳軌道、住友別子鉱山鉄道などの地方中小私鉄、さらに日本陸軍鉄道連隊の保有車両まで含まれている。
コレクションの経緯
渡辺四郎は、1880年8月29日、東京市の大地主で実業家の渡辺治右衛門の四男として生まれた[5]。渡辺四郎の義兄であった渡辺六蔵は逓信省鉄道外局に勤務する鉄道技師であり[注釈 1]、直接の専門的指導と感化をうけた[1]。渡辺四郎は中学生のころから機関庫を訪問するなどしていた[6]。
渡辺四郎の弟の渡辺六郎の話によると、実父である渡辺治右衛門は日本鉄道の大株主であった[7]。日本鉄道は当時1,000株以上の株主には優待として全線無賃乗車券を配布していた[7]。渡辺治右衛門は自分の子供名義でそれぞれ1,000株を持たせていた[7]。渡辺六郎は「これ(日本鉄道の全線無賃乗車券)を使って、四郎兄と私は学校の休暇中に各地を旅行してまわった」と回顧している[7]。
岩崎輝弥と渡辺六郎は共に1887年(明治20年)の生まれで、また両名ともに東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)から東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)まで同じ学校に通っていた。このため渡辺四郎と岩崎輝弥は渡辺六郎を通じて知り合ったと推定される[1]。渡辺四郎と岩崎輝弥との交流については、二人の間でやりとりされた往復書簡も残されている[1]。
渡辺四郎と岩崎輝弥が小川一真に撮影を依頼した鉄道写真は1902年(明治35年)から1907年(明治40年)頃にかけて日本各地で撮影された[4]。小川一真に撮影依頼された理由の一つとして小川が1898年(明治31年)に鉄道写真集『日本鉄道紀要』を出版した経験を買われたからとも考えられている[8]。
1910年(明治43年)、渡辺四郎はヨーロッパに渡航した[1]。このとき、渡辺が撮影したヨーロッパの鉄道写真もコレクションに残っている[1]。一方、岩崎輝弥は渡辺が渡欧すると鉄道への興味を失ったらしく、農園経営に専念するようになった[1]。
1924年(大正13年)渡辺四郎の遺族が鉄道博物館(戦後改名し交通博物館)に写真原板などを寄贈した[9]。1941年(昭和16年)8月19日、岩崎輝弥本人が鉄道博物館に対して鉄道写真原板および鉄道図書を寄贈した[10]。
1963年(昭和38年)から1966年(昭和41年)にかけて、交通博物館ではガラス原板を修復し、全点フィルム複製原板の作成を行った[1][11]。この作業は鉄道写真家の広田尚敬が行った[12]。またこの際に車両を中心に、撮影当時の鉄道事業者別の写真台帳と、国有化以後の国鉄在籍車両については車両型式別台帳が作成された[12]。
国鉄の分割民営化後、交通博物館の設置者が東日本旅客鉄道となる。コレクション写真のデジタル化は、2003年(平成15年)より検討が始まり、2005年(平成17年)から2006年(平成18年)にかけて実施された[13]。現在、コレクションはさいたま市に移転した鉄道博物館が保有している。