島徳蔵
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米穀商・島徳治郎の長男として大阪で生まれた[8]。学問を深くは修めず[9]、学校はいい加減の所で切りあげた[10]。株式取引所仲買人となり[2]、父のもとで仲買の修業を積んだ[11]。青年時代から繻子紐の前掛をかけて株式店頭に「二買い三遣り」の手を振った[10]。
1900年、今村清之助を相手に関西鉄道の買い占め戦をやった[11]。1903年、独立して仲買店を開業した[11]。日露戦争景気で巨利を博した[11]。鉱業を営む[5]。銅山経営を開始して一時は鉱山師となり、後年これを久原家に譲渡し、暫くは世外の身となり悠々自適、機会の到来を待った[9]。1916年、大阪株式取引所理事長に就任した[11]。同年家督を相続した[6]。1927年、阪神電鉄社長就任。
日本揮発油会長、豊国火災保険、阪神電気鉄道、日魯漁業各社長、上海取引所所長、大阪株式取引所、天津取引所、漢口取引所各理事長[6]、日本信託銀行、豊国火災保険、朝鮮煙草、大阪電灯、関西信託、門司築港、大同電力、朝鮮森林鉄道、大阪北港、大同肥料、天津信託、朝鮮電気興業、阪神国道電軌、奈良電気鉄道各取締役[6][12]、大阪電灯、大阪城東土地[5]、日本郵船、中央毛糸紡績各監査役[6]等をつとめた[11]。
しかし世界恐慌の煽りで関係企業が経営不振に瀕すると、その乱脈振りが追及されることになる。大株の取引所法違反事件に連座した[2]のを始め、1933年には売塩事件・翌1934年には愛国貯金銀行破産に伴う行金200万円背任横領嫌疑で各々刑事訴追された[8]。1937年4月に愛国貯金銀行事件で懲役5年の判決を受けて[8]、控訴審を争う最中に病没。
