崎谷誠一
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山陽高等学校でフォワード、あるいは攻撃的MFとして2年時の1967年、全国高等学校サッカー選手権で優勝(洛北と第二延長を含む120分0-0で両校優勝)[1][3][4]、国体3位[1]。2年生でユース日本代表に選出される[3]。3年時の翌1968年には主将として全国高等選手権準優勝(0ー1初芝)[5]。翌1969年第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)に出場した。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者の同学年で[6]、崎谷は八幡製鉄、山陽の同級・河野和久は日立、県立広島工業の荒井公三は古河電工、小原秀男は東洋工業、修道の大谷栄一は三菱重工、広島市商の河本博は八幡製鉄と、日本サッカーリーグ(JSL)に進み、いずれもチームの主力選手として活躍した[3]。また、皆実の平田生雄は永大産業に所属した後、少年サッカー指導者として活躍している[1][7]。
崎谷は高校卒業後、八幡製鉄入りし主力選手として活躍した。八幡製鉄には山陽高から8人が進んだ[8]。日本代表としてもミュンヘンオリンピック予選など、国際Aマッチ3試合に出場している。
現在は、Jリーグのマッチコミッショナーを務めている。
所属クラブ
- 山陽高校
- 1969年 - 1981年 八幡製鉄/新日本製鐵