崔凡述
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慶尚南道昆陽郡両浦面(後の泗川郡西浦面)出身[3]。昆陽普通学校卒業後、1916年に地元の多率寺で出家した。1917年に海印寺の地方学林に入学した。三・一運動の時は独立宣言文を配布したため、日本の警察に逮捕された。1922年に渡日し大正大学予科を経て、1933年に同大仏教学科卒。特に1923年以降は朴烈、朴興坤、陸洪均、韓龍雲、金法麟らと「不逞鮮人社」「黒友会」「卍党」などの運動に参加して、いわゆる「朴烈事件」の大逆事件で上海への爆弾運搬役として検挙され、8か月間投獄された。1933年に朝鮮仏教青年同盟中央執行委員長、明成女子学校校長を務め、日本留学時代にインドの高僧からもらった仏舎利3個を梵魚寺に寄贈した。1934年に地元の泗川で光明学院を設立し、1936年に多率寺仏教伝授学院を創立し、同寺に留まった金法麟、金凡父らと密かに独立運動を展開した。1937年に海印寺の八万大蔵経を印経した。1943年9月からの13か月間にまた警察の拘検を受けた。また、他に多率寺住職、仏教社社長、朝鮮仏教総本山建設宗憲起草委員を歴任した[1][2][4][5][3]。
光復後は米ソ共同委員会大韓仏教団体代表、海印寺住職、朝鮮仏教中央総務院総務部長、財団法人仏教中央教団理事、財団法人伽倻叢林理事、国民大学第2・3代理事長[6]を務め、1948年の初代総選挙で国会議員に当選した。1951年に海印中高等学校を創設し、52年に海印大学を設立し、理事長・学長を務めた[1][2][4][5][3]。
1960年以降は多率寺の組室で茶道の大家として活動し、元暁に関する研究も行った[1][5]。1979年7月10日にソウル市内の貞陵普賢庵で入寂。享年75。多率寺に浮屠を奉安した[1][7]。