崔協
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幼くして孝行で知られ、進士に及第した。度支巡官を初任とし、渭南県尉に転じた。史館に宿直しながら、3官を歴任した。後梁が建てられると、崔協は左司郎中・万年県令・給事中をつとめ、兵部侍郎に進んだ。中書舎人の崔居倹と遭遇したとき、崔協は哀調を帯びた声で「崔蕘の子がどうしてわたしに会うのか」といった。崔居倹が末帝にこれを報告すると、崔協は太子詹事に降格された[2]。
同光元年(923年)、後唐に入って、崔協は吏部侍郎となった[3]。同光2年(924年)、御史中丞に転じた[4]。崔協は高談虚論にふけっていたため、当時の人は崔協の上奏に嘘があるとみなしていた[2]。同光3年(925年)、礼部尚書に任じられた[5]。天成元年(926年)、太常寺卿に転じた[6]。天成2年(927年)、枢密使の孔循の推薦により、門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった[7][2]。
天成4年(929年)2月、崔協は明宗が夷門から洛陽に帰るのにつき従い、2月27日に道中の須水駅で中風のため突然死した。享年は66。尚書左僕射の位を追贈された。諡は恭靖といった[8]。