崔廷勲

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崔 廷勲(さい ていくん、生没年不詳)は、遼代軍人本貫懐州河内県

幼いころ契丹(遼)に連れ去られた。成長すると容貌魁偉で、が美しかった[1]天顕12年(937年)、後晋の雲州節度判官の呉巒雲州に立てこもると、廷勲は契丹の太宗の命を受けて、雲州を包囲した[2]。のちに雲州節度使に累進し、官は侍中に昇った。会同10年(947年)1月、太宗が開封府に入り、後晋の少帝が封禅寺に移されると、廷勲はその寺に派遣されて少帝を護衛した[1]大同元年(同年)2月、河陽節度使に任じられた[3]。4月、武行徳が軍を率いて孟州に進軍すると、廷勲は武行徳に追放され、奚王拽剌とともに懐州に撤退した。ほどなく兵を率いて反攻し、武行徳を破った。太宗が死去すると、廷勲は鎮州に北帰した。天禄2年(948年)、耶律抜里得劉晞とともに定州に逃れた[4]。のちに統軍使となった。応暦13年(963年)、北宋が益津関を築こうとすると、廷勲は穆宗の命を受けて、南京留守の高勲とともに兵を率いてこれを妨害した[5]。のちに遼の本土で死去した[4]

脚注

伝記資料

参考文献

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