劉晞

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劉 晞(りゅう き、生没年不詳)は、遼代官僚本貫涿州[1]

経歴

若くして儒学で郷里に知られた。盧龍軍節度使の周徳威の下で盧龍軍節度従事となり、のちに契丹(遼)に降った。契丹で漢職をつとめた。会同年間、南京留守となり、三たび知礼部貢挙をつとめた。同中書門下平章事に累進し、侍中を兼ねた。会同10年(947年)1月、契丹の太宗に従って開封府に入り、洛京留守に任じられた。大同元年(同年)4月、孟州で軍乱が起こると、劉晞は許州に逃れ、さらに開封府に逃れた。蕭翰が援兵を派遣して劉晞を洛陽に戻らせた。太宗が死去すると、劉晞はまた洛陽から開封府に入り、蕭翰に従って北帰の途についた。鎮州にとどまった。天禄2年(948年)、耶律抜里得崔廷勲とともに定州に逃れた。のちに遼の本土で死去した[1]

家族

  • 父:劉済雍(涿州諸県の県令を歴任した)[1]
  • 子:劉珂(世宗の妹の燕国公主を妻に迎えた)

脚注

伝記資料

参考文献

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