崔彦昭

From Wikipedia, the free encyclopedia

崔 彦昭(さい げんしょう、生没年不詳)は、唐代官僚政治家は思文[1][2]本貫貝州武城県

崔豈の子として生まれた。大中3年(849年)、進士に及第し、節度使の属官を初任とした。咸通3年(862年)、兵部員外郎となり、兵部郎中知制誥に進み、中書舎人に任じられた。二度異動して、戸部侍郎・判戸部司事となった[1][3]

彦昭は経世済民に長け、儒学に深く通暁し、官吏の事務に詳しかった。咸通10年(869年)、検校礼部尚書孟州刺史・河陽三城懐州節度使となった。咸通12年(871年)1月、検校刑部尚書太原尹・北都留守・河東節度観察等使に転じた[1][4]

咸通14年(873年)、僖宗が即位すると、彦昭は検校吏部尚書を加えられた。このころ趙隠高璩が宰相の任にあり、彦昭と同年の進士であったことから、彦昭は財務に長じていると推薦された。咸通15年(874年)3月、兵部侍郎となり、諸道塩鉄転運使をつとめた[1][4]。8月、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった[5]

先だって楊収路巌韋保衡が収賄の罪で失脚していた。蕭倣が宰相となると、彦昭は蕭倣に協力して人事の刷新にあたった[1][4]乾符元年(同年)11月、門下侍郎となり、刑部尚書を兼ねた[6]。乾符2年(875年)6月、尚書右僕射となり、門下侍郎を兼ねた[7]。乾符3年(876年)3月、太清宮使・弘文館大学士をつとめた[8]鄭畋李蔚とともに政権を担当した[9]。6月、尚書左僕射を兼ねた[10]。9月、特進を加えられた[11]。乾符4年(877年)1月、司空となった[12]。乾符5年(878年)10月、宰相を退任し、太子太保[13]となった。のちに死去した[14][4]

子に崔保謙があった[14]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI