崔珙
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書判抜萃科に優秀な成績で登第し、節度使の補佐役を歴任した。その性格は威厳があって重々しく、官吏の仕事に精通していた。大和元年(827年)、泗州刺史に累進した。入朝して太府寺卿となった。大和7年(833年)1月、広州刺史・嶺南節度使となった。この年の7月、検校工部尚書・徐州刺史・兼御史大夫・武寧軍節度・徐泗濠観察等使となった[1][2]。
開成元年(836年)、崔珙は検校兵部尚書を加えられた。開成2年(837年)、検校吏部尚書・右金吾衛大将軍となり、街使をつとめた。6月、京兆尹に転じた。この年、関中で旱魃が起こると、崔珙は宮中に引き入れていた滻水の10分の9を減らし、民田を灌漑するよう上奏して、聞き入れられた。開成3年(838年)1月、仇士良の派遣した刺客が宰相の李石を親仁里で殺そうとした。崔珙は刺客を捕らえることができなかった罪に問われて、俸給を減額された[3][4]。
開成5年(840年)[5][6]、李徳裕が宰相となると、崔珙は李徳裕と親しかったことから、戸部侍郎に累進し、諸道塩鉄転運使をつとめた。ほどなく本官のまま同中書門下平章事(宰相)となり、刑部尚書・門下侍郎を兼ねた。会昌2年(842年)、銀青光禄大夫の位を加えられ、尚書左僕射を兼ねた。崔珙はもともと崔鉉と合わず、李譲夷が崔鉉を召し出して宰相とすると、崔珙に代えて諸道塩鉄転運使の任を領知させた。会昌4年(844年)、崔珙は宋州・滑州の塩鉄銭90万貫文を乱費したことや、かつて劉従諫を保護したことが罪に問われ、澧州刺史に左遷され、さらに恩州司馬に降格された。会昌6年(846年)、宣宗が即位すると、崔珙は商州刺史に移された。太子賓客・分司東都となり、鳳翔節度使として出向した[3][4]。
大中3年(849年)、崔鉉が宰相に復帰すると、崔珙は病を理由に辞職を願い出た。太子少保・分司東都となった。大中6年(852年)、太子少保のまま鳳翔節度使となった。大中8年(854年)、在官のまま死去した[7][4]。