崔琯
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貞元18年(802年)、進士に及第し、さらに賢良方正科に登第した。節度使の属官を初任とし、入朝して尚書郎となった。大和元年(827年)、給事中に累進し、幽州宣撫使をつとめて、文宗の意にかなった。大和4年(830年)、興元府で兵乱が起こり、山南西道節度使の李絳が殺害されると、崔琯は乱を平定するよう命を受けて褒城県に出向した。凱旋すると、工部侍郎に転じた。冬、京兆尹に任じられた[2][1]。
大和5年(831年)4月、尚書右丞に転じた。大和6年(832年)12月、江陵尹・御史大夫・荊南節度使として出向した。大和8年(834年)、入朝して兵部侍郎となり、吏部侍郎に転じ、権判左丞事をつとめた。開成2年(837年)、正式に尚書左丞に任じられた。本官のまま権判兵部西銓・吏部東銓事をつとめた[3][4]。
開成3年(838年)、検校戸部尚書・判東都尚書省事・東都留守・東都畿汝州都防禦使となった。会昌元年(841年)、銀青光禄大夫・検校吏部尚書・興元尹・山南西道節度使に転じた。会昌4年(844年)、弟の崔珙が宰相を罷免されて左遷されると、崔琯も節度使を退任して洛陽に帰った。会昌5年(845年)、死去した。尚書左僕射の位を追贈された[3][4]。