崔遠 (唐)

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崔 遠(さい えん、生年不詳 - 905年)は、末の官僚文人政治家は昌之[1]本貫深州安平県

龍紀元年(889年)、進士に及第した。大順元年(890年)、員外郎・知制誥となり、翰林学士をつとめた。中書舎人に任じられた。乾寧3年(896年)、戸部侍郎に転じ、博陵県男に封じられた。兵部侍郎・翰林学士承旨となった[2][3]。ほどなく本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった。乾寧4年(897年)3月、判戸部事をつとめ[4]、4月に兵部尚書となり、6月に中書侍郎に転じた。光化元年(898年)1月、工部尚書を兼ねた。光化3年(900年)4月、吏部尚書を兼ねた[5]。この年の9月、宰相を退任し、兵部尚書となった[6]天復4年(904年)、中書侍郎・同平章事となり、再び宰相をつとめた[7]昭宗洛陽遷都に扈従した[8]天祐2年(905年)、宰相を退任し、尚書右僕射となった[9]朱全忠の意を受けた柳璨の画策で、崔遠は白州長史に左遷されることとなった。道中の滑州白馬駅において殺害された(白馬の禍[8][3]

崔遠の文才は清らかで美しく、その風格は厳しく整っていたため、当時の人から慕われて、「釘座梨」と称された[8][3]

家族

  • 高祖父:崔意
  • 曾祖父:崔頲(少府監、同州刺史)[10]
  • 伯祖父:崔琯
  • 伯祖父:崔珙
  • 祖父:崔璵(字は朗士、兵部侍郎、博陵県子)
  • 父:崔澹(礼部員外郎、吏部侍郎)[11]

脚注

伝記資料

参考文献

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