川村屋
From Wikipedia, the free encyclopedia

1837年に東京の浅草で生まれたたけは18歳の時に遊女になり、源氏名として倉を名乗る。この頃に、斎藤亀次郎と知り合う。1868年(明治元年)、倉が31歳の時に東京から景気の良かった大阪に移ったが、店を開く資金を調達に東京に戻る際、船を降りた横浜の繁栄に惹かれ、ここで暮らすこととした。関内に芸者屋を開いたが、1871年には田中平八の出資で相生町に料理屋「富貴楼」を開業した。1873年3月の豚屋火事で店は焼失したが、常連客の援助を受け、同年9月には尾上町5丁目[注釈 2]で営業を再開した。富貴楼は待合政治の場として、多くの政財界の要人が会合を持った。伊藤博文もその一人で、尾上町の店の看板も伊藤が揮毫している[3]。日本の鉄道開業も明治初期であり、1872年10月14日(明治5年9月12日)に、現在の桜木町駅の位置に初代横浜駅が開業した。
倉には、列車の貸座布団業を営む弟の八太郎がおり、その妻の渡井つる[注釈 3]が1888年に川村屋洋食店を開業。その後伊藤博文の口利きで横浜駅[注釈 1]構内の営業許可を得て、1900年4月1日[2]にはレストランを開業した。当初は西洋料理を出す店であったが、1969年には借店舗の面積を増やし、蕎麦店を始めた。横浜博覧会を控えた1989年には桜木町駅の駅舎が横浜寄りに移転[注釈 4]。新駅舎の店舗は従前より狭いことから、レストランの営業を終了し蕎麦店の専業となる[1]。この時は改札口の正面にあったが、2014年にCIAL桜木町 停車場ビュッフェが開業し、改札口の右手(野毛町側)に移転した。
2023年3月31日をもって閉店した[4][5] が同年8月、先代の娘夫婦が7代目として後を継ぐことが報じられ[6]、9月1日に営業を再開した[7][8]。
