市橋長昭
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江戸神田の藩邸で生まれる。幼名は韶之助。天明5年(1785年)12月7日、父の死去により跡を継いだ。寛政2年(1790年)5月15日、将軍徳川家斉にお目見えする。同年12月7日、従五位下下総守に叙任する。寛政8年7月8日、大番頭に就任する。文化元年(1804年)3月24日、奏者番に就任する。文化4年10月16日、辞職する。
幼少期から聡明で学問を好んだことから、藩主になると藩校・日新館を創設して文武を奨励した。また、西生懐忠に命じて「蒲生旧址考」を編纂させ、さらに砲術の訓練から武術・柔術・馬術・剣術などの武道も広く奨励するなどした[1]。このため、仁正寺藩の中興の英主といわれている。また、文化5年(1808年)に湯島聖堂に宋元版の書物30種を献上する[2]など、学問の振興に志があることで知られ、毛利高標、池田定常(松平冠山)ら同時代の英主達と並び、寛政期における好学の三大名と称された[1]。交流があった学者として、大典禅師・佐藤一斎・林述斎などがあげられる[3]。
文化11年(1814年)9月27日、42歳で死去し、跡を長男の長発が継いだ。法号は泰雲院文翁竜章大居士。墓所は東京都荒川区西日暮里の南泉寺。