平井頼母

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生誕 不明
死没 天正13年(1585年)3月29日
別名 七郎左衛門・定則(大和守)
 
平井頼母
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正13年(1585年)3月29日
別名 七郎左衛門・定則(大和守)
戒名 白光了雲信士
墓所 岐阜県恵那市明智町吉良見
主君 武田信玄織田信長森長可森忠政
氏族 平井氏藤原南家または甲斐源氏
父母 平井光行(宮内少輔)
源之進・長太夫・十平・光頼(岡之助)・助五郎・浅野十左衛門室・松姫(遠山友政室)
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平井頼母(ひらい たのも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将美濃国土岐郡高山城主。

平井頼母の出自については三説があり、いずれが正しいかは明らかでない。第一の説は、播磨国揖保郡の平井郷[1]を発祥とする平井氏とするもので、『老人物語』には頼母が播磨から来たと記されている。明応5年(1496年)に赤松政秀が築いた平位(平井)城は当初赤松氏の城であったが、その4年後には赤松氏庶流の平井氏が守備するようになったと伝えられる[2]。同城は龍野古城以前の拠点であり、「元祖龍野城」とも評される存在であった。終末期の城主とされる平井備中守貞利は龍野赤松氏4代城主の赤松広英に仕え、主家の但馬国竹田城移封にも従ったが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に広英が自害すると帰郷し、醸造業「石橋屋」を営んだという。この時期、龍野赤松家旧臣の中には同様に醸造業へ転じた者が多く、その中で武士として美濃へ移住したのが頼母であるとする説がある。

第二の説は京都の地下家の平井氏の出身とするもので、三宝院門跡坊官や朝廷宮内卿を務めた家柄とされる。また同時期に加茂郡加治田城には加治田平井家が存在し、平井信正が平井宮内と称したこと、さらに頼母の父とされる平井光行も平井宮内少輔と称していたことから同族とみる見解がある。

第三の説は甲斐平井氏出身とするもので、甲斐源氏武田氏庶流にあたり、甲斐国八代郡上平井村(現在の山梨県笛吹市石和町上平井)を発祥とする一族とする説である。光行・頼母父子は信濃国諏訪郡境村から伊那郡へ移住した系統に属するとされ、家紋として三ツ花菱・三ツ梶葉に鷹羽の打違い・三ツ柏を用いたと伝えられる。

経歴

脚注

参考文献

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