平井氏
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肥前平井氏は、中九州の大友氏、南九州の島津氏と並ぶ、鎌倉時代以来の三守護家で北部九州の大部分及び太宰府を統括した名族「少弐氏(武藤氏)」の一門(同族)である。
平井氏は千葉氏の家臣となり有馬氏に備えてこの地へ配されたことに始まり、15世紀の中頃には佐賀県の須古(杵島郡白石町)周辺を支配していたとされ、1万余騎[1]を従える地域の一大勢力を誇り、当時の佐賀県で最大級とされる「須古城」、「杵島城」、「男島城」と三つの城郭群で構成される難攻不落の居城を有した。
婚姻により、大永5年(1525年)、杵島の地にいた平井経則は有馬氏に寝返り、千葉氏や本家少弐氏とも対立。後に北部九州の覇者となる龍造寺氏から永禄6年(1563年)から天正2年(1574年)までの間に4度に渡る「須古城の戦い」の攻防を受け天正2年(1574年)ついに落城し滅亡した。『肥陽軍記』では城主平井経治は切腹して果てたとしているが詳細は不明である。『直茂公譜』によると、残された遺児は鍋島直茂公により鍋島家で召し抱えられ、その末裔(まつえい)は蓮池鍋島藩に末長く仕えたという[2][3]。
後に須古城は龍造寺氏の属城となり、龍造寺隆信が隠居すると移り住み居城とした。天正12年(1584年)龍造寺隆信は有馬・島津連合軍との戦いで討死したが、須古城は隆信の弟龍造寺信周の居城となり、須古鍋島家の祖となった。
肥前平井氏の出自
肥前平井氏歴代当主
肥前平井氏系譜
甲斐の平井氏
甲斐の平井氏は、甲斐源氏の武田氏の庶流で、甲斐国八代郡上平井村(現在の山梨県笛吹市石和町上平井)を発祥とする一族で、九州の肥前平井氏とは無関係である。
初代は、源義清の次男の源清光(逸見冠者)の五男の清隆が平井氏を称したことに始まり、二宮氏とも称した。その子の隆頼から後は定かでない。
平井氏は、戦国時代になると武田氏に従い各地の戦闘で活躍し、『日本城郭大系』によれば、『天正壬午武田諸士起請文』に、美濃の遠山衆に「平井作左衛門」の名がみられる。城織部衆・土屋衆の中にも平井一族の名が記されている。
信濃国伊那郡の平井家・平井出家の系統は、甲斐から信濃国諏訪郡境村に移住した後に、伊那郡に転住したと考えられ、家紋は三ッ花菱・三ッ梶葉に鷹羽の打違い・三ッ柏を使用し、甲斐平井氏の支流と思われる。
播磨の平井氏
播磨国揖保郡の平井郷[5]を発祥とし、老人物語は、平井頼母は播磨から来たと記述している。
明応5年(1495年)に赤松政秀が築城した平井城は、当初は赤松氏の城であったが、その4年後には平井氏が城を守るようになったと伝えられている。平井城は、龍野古城が築かれる前の「元祖龍野城」とも言える存在であった。鎌倉時代には「平位」とも書かれている。
平井城の終末期の城主は平井備中守貞利であった。彼は龍野赤松氏4代城主の赤松広英に仕えたが、主家が但馬国の竹田城に移封されると従っている。しかし関ヶ原の戦い後に、赤松広英が徳川家康の怒りに触れて自害に追い込まれると、貞利は故郷の龍野に戻った。
その後、貞利は武士を捨て、醸造業を開業して「石橋屋」を営んだ。この頃、龍野赤松家の家臣の中には、武士を辞めて醸造業を始めた者が多かった。