平山藤次郎
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阿波徳島藩士。江戸三田小山の藩邸に生まれる[3]。慶應義塾に学び後に攻玉社に移り[3]、1870年(明治3年)海軍兵学寮(1期)に入学。 1期生は平山と森又七郎の2人だけだった。1873年(明治6年)頃に卒業して少尉補に任ぜられた[3]。
同年より清国航海。1874年(明治7年)少尉に進み、練習艦「筑波」で台湾、清、サンフランシスコ及びハワイ等へ航海し、また日本環海を成した[3]。西南戦争で功あり、太政官より金五十円を下賜される。その後オーストラリアに赴き帰朝後中尉へと進み、1883年(明治16年)に大尉、1885年(明治18年)に少佐、1889年(明治22年)大佐へと昇進した[3]。「乾行」乗組兼兵学校勤務の後、摂津艦艦長、「筑波」艦長、「天城」艦長、「葛城」艦長を経て、日清戦争で「八重山」艦長などを歴任した[3]。
1895年(明治28年)10月、日本領となった台湾において、抵抗した中国人がイギリス商船「テールス号」に逃げたため、「八重山」がこれを追跡して臨検を行うという事件が起きた。これが公海上で行われたことからイギリスから抗議を受け、外務省は海軍に対して責任者の処罰を要求した。その結果、艦長の平山と上司の常備艦隊司令長官・有地品之允海軍中将を予備役に編入することで解決が図られた。
1896年(明治29年)5月、商船学校長・高等官三等に叙任。1905年(明治38年)10月19日、後備役となり[4]、1909年(明治42年)8月15日に退役した[5]。

