上記の系譜は18世紀末の寛政年間に幕府で編纂された『寛政重修諸家譜』(『寛政譜』)による。
ただし、『寛政譜』は平岩五左衛門正広を平岩親重の次男で、家康の重臣平岩親吉の同母弟とする[1]が、17世紀前半の寛永年間に編纂された『寛永諸家系図伝』(『寛永系図』)では親吉との血縁関係は記されておらず[3]、さらに18世紀中頃に尾張藩で編纂された『士林泝洄』では平岩五左衛門(実名は吉勝)は親吉の甥(弟康重の子)になっていて[4]、系譜関係には混乱が見られる。
また、『寛永系図』では正広は慶長17年(1612年)に73歳で病死したとしており[3]、逆算すると生年が天文9年(1540年)生まれとなって、天文11年(1542年)生まれの親吉より年長となる矛盾がある。
この点について、『寛政譜』の編纂時に平岩家から提出された家譜では、享年を70歳に訂正して親吉の同母弟として矛盾のない天文12年(1543年)生まれとし、また名を平岩金左衛門親正とした上で、尾張藩に仕えた平岩五左衛門正広を旗本平岩金左衛門正当の父である親正とは別人(親吉兄弟の末弟)とすることで整合を取っている[2]。これに対して『寛政譜』の編者は家譜と『寛永系図』の食い違いについて後者の説を採用した[1]ため、上記の矛盾がそのまま書き込まれている。