平時信
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白河院政期後半に、文章生を経て大学助・六位蔵人・左衛門少尉を歴任。長承2年(1133年)従五位下・甲斐権守に叙任された。
鳥羽院政期に入ると、院判官代の一方で、検非違使・兵部権大輔などの武官を務め、甲斐権守や伊予介を兼帯した。この間の康治元年(1142年)5月には鳥羽法皇の東大寺での受戒にあたって藤原顕頼と共に奉行を務めている。翌康治2年(1143年)に正五位下に叙された。
久安3年(1147年)に娘の時子が平清盛の継室となって三男宗盛を儲けている。しかし、同年3月に院や皇后の近臣が居住する五条京極辺りにあった時信の屋敷が火災によって焼失している。久安4年(1148年)2月には前年に娘婿である清盛の行動が発端となった祇園闘乱事件の報謝のため、祇園社で法華八講を行う準備に派遣されている。久安5年(1149年)7月26日卒去。
娘の滋子は、時信の死後に後白河法皇の寵妃となり、応保元年(1161年)に憲仁親王を産む。仁安3年(1168年)憲仁親王の即位(高倉天皇)に伴い、時信は天皇の外祖父として左大臣・正一位を贈られた。
人物
「天性柔順」であり争いごとをしない性格で、その死は多くの人に惜しまれたという[1]。
官歴
系譜
脚注
参考文献
- 宮崎康充編『国司補任 第五』続群書類従完成会、1990年
- 市川久編『蔵人補任』続群書類従完成会、1989年