平経高
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幼少期に吉田経房の猶子となるが、復氏したのち建久元年(1190年)に叙爵される。翌年名を時平から経高に改名する。承元3年(1209年)4月に蔵人となり、建暦元年(1211年)1月に右少弁となる。承久2年(1220年)1月に右大弁から順徳天皇の蔵人頭となる。元仁元年(1224年)12月に従三位に叙される。嘉禄2年(1226年)1月には参議に任じられ、暦応元年(1238年)に正二位に叙される。仁治元年(1240年)1月には民部卿となり、京都市中の庶政にあたった。
菅原為長の教えを受け、朝儀・公事に関して高い見識を有し、政務に練達した人物として知られ、広橋頼資によれば本人もそのことについての自負を有していたという(『頼資卿記』寛喜元年9月13日条)。また、九条道家及びその子供達(九条教実・二条良実・一条実経・女婿近衛兼経)の側近として活躍、「任官・加爵・諸訴」を中心とした徳政政策(『平戸記』延応2年2月10日条)の推進に努めた。また、その見識から道家の政敵であった土御門定通からも信任され、定通と摂関家との連絡役を務めた。その一方で、順徳天皇に取り立てられた経緯から鎌倉幕府に対しては公然と反感を示すことがあり、雅成親王や忠成王の後見を引き受けている。『平戸記』にもそうした記述が見られ、連署北条時房が死去した際には後鳥羽上皇の祟りであるとして「関東漸以衰微」と喜んでいる(延応2年1月24日条)。
だが、寛元4年(1246年)の宮騒動以来の一連の政変で九条道家が失脚、同年に鎌倉幕府の支援を受けた後嵯峨上皇の院政が始まると政界から排斥され、失意のうちに建長2年(1250年)に官を退いた。
官歴
注記のないものは『公卿補任』による。
- 文治3年(1187年) 5月4日:大舎人助(于時経房卿猶子云々)
- 文治6年(1190年) 正月24日:従五位下(皇太后御給、于時平)
- 建久2年(1191年) 2月1日:紀伊守
- 建久3年(1192年) 3月:見後白河院判官代[1]
- 建久6年(1195年) 2月2日:紀伊守(重任)
- 建久9年(1198年) 正月5日:従五位上(後白河院承安4年御給)
- 建久10年(1199年) 10月:皇后宮権大進(皇后・範子内親王)
- 建仁3年(1203年) 正月13日:正五位下
- 元久元年(1204年) 10月26日:春宮権大進(春宮・守成親王)
- 元久2年(1205年) 4月10日:右衛門権佐、検非違使宣旨[2]、権大進如元
- 承元3年(1209年) 4月14日:五位蔵人
- 承元4年(1210年) 5月7日:関白近衛家実家司[3]。12月17日:新帝蔵人[4]
- 承元5年(1211年) 正月18日:右少弁、去佐。9月8日:左少弁、辞蔵人[2]。10月12日:権右中弁。10月29日:従四位下[5]
- 建保2年(1214年) 正月5日:従四位上。12月1日:右中弁
- 建保3年(1215年) 5月:見伯耆知行国主[6]
- 建保4年(1216年) 正月5日:正四位下(春日行幸賞)
- 建保6年(1218年) 正月13日:左中弁。12月12日:修理左宮城使
- 建保7年(1219年) 正月23日:右大弁
- 承久2年(1220年) 正月22日:蔵人頭、去弁。3月22日:兼宮内卿
- 承久3年(1221年) 正月:服解(父)。4月16日:止頭(譲位)
- 貞応2年(1223年) 2月25日:兼中宮亮(中宮・藤原有子)
- 元仁元年(1224年) 12月21日:従三位、卿亮如元
- 嘉禄2年(1226年) 正月23日:参議
- 嘉禄3年(1227年) 10月4日:見筑前知行国主[7]
- 安貞2年(1228年) 3月20日:正三位(臨時)
- 寛喜2年(1230年) 11月13日:給大隅国[2]
- 寛喜4年(1232年) 正月30日:兼近江権守。2月7日:従二位(去年北野平野行幸行事賞)
- 文暦2年(1235年) 正月23日:辞参議
- 嘉禎4年(1238年) 正月5日:正二位
- 暦仁2年(1239年) 正月:見宣陽門院院司[8]
- 延応2年(1240年) 正月30日:民部卿
- 建長2年(1250年) 9月16日:止卿
- 建長7年(1255年) 6月:薨去