広府鎮
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地理
歴史




広府鎮周辺は歴史に現れるころから典型的な沼地であった[9]。広府鎮自体は紀元前6世紀頃の春秋時代に初めて定住が行われた[10]。周時代には晋の一部を形成し、戦国時代には趙の一部を形成した[5]。秦朝の下で邯鄲郡の一部を形成した[5]。
隋末、竇建徳の建てた「夏国」(618年 - 621年)の首都として機能した[8][11][12]。当時鎮は黄河の南の地点から幽州や高句麗へと東北に走る主要な道路上にあった[13]。竇建徳が淮安郡王李神通を捕えると、広府鎮の牢に拘禁された[14]。竇建徳が621年の虎牢の戦いで捕えられると、騎兵数百騎が首都に退却後、勝利を得た唐に鎮を明け渡した[15]。竇建徳の処刑後、夏の将であった劉黒闥は東突厥の助けを得て621年後半に広府鎮近くで唐を破り、再び反乱を勢いづかせた。「漢東王」を称した劉は、洺州を首都とした。唐の太宗は近くの洺河の堰を決壊させて劉黒闥を破り、漢東軍の大半が壊滅した[16][17]。劉黒闥は再び東突厥の助けを得て侵攻したが敗れ、623年1月に洺州で処刑された[16][18]。
広府鎮の現在の城壁は、唐(7世紀-9世紀)に築かれた東側の城壁から始まり、元(13世紀-14世紀)と明(14世紀-17世紀)の時代に組積造で造られた[19]。
広府城内の1.5km2の歴史区域は[8]、中国の改革開放以降一新され、明代の鎮の景観を真似た建築様式となっている[19]。
ホレス・ウィリアム・ハウルディングの南直隷宣教団(福音会)が1905年、鎮にプロテスタント教会を開設した[20]。初期はキャサリン・エウォルドが監督した[21]。