建皇子
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経歴
『日本書紀』天智天皇7年(668年)2月条によれば、建皇子は「唖不能語」すなわち話すことが不自由であったという[2]。
遡って同書斉明天皇4年(658年)5月条によれば、斉明天皇皇孫の建王は8才で薨去し、今城谷の上に殯を起こし納められた[2][3]。その際に天皇は深く悲しみ、将来的に自らの陵への合葬を命じるとともに、次の歌3首を詠んでいる[2][3]。
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また同書同年10月条においても、斉明天皇は紀温湯(和歌山県白浜町の湯崎温泉)において建王を追憶し、次の歌3首を詠んだと見える[2][3]。
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系譜
墓


墓は、宮内庁により奈良県高市郡高取町大字車木にある建王墓(たけるのみこのはか、北緯34度27分27.42秒 東経135度46分4.50秒)に治定されている[4][5]。斉明天皇・間人皇女の越智崗上陵との合葬陵墓で、宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「車木ケンノウ古墳」。
ただし、文献上では建皇子の墓の所在は必ずしも明らかでない。前述のように『日本書紀』によれば斉明天皇は建皇子を自身の陵に合葬するよう命じているが、同書天智天皇6年(667年)2月27日条では斉明天皇・間人皇女を小市岡上陵に合葬して陵前に大田皇女を埋葬したとあるものの、建皇子の合葬に関しては記述がなく、問題を残している[6]。
一方、殯塚が起こされたという「今城(いまき)」については、奈良県吉野郡大淀町今木との関連が指摘され[3][7]、特に同地の保久良古墳(大淀町指定史跡、北緯34度24分36.45秒 東経135度45分17.61秒)を殯塚に比定する説がある[7]。保久良古墳は7世紀前半頃の築造と推定される円墳で、直径約15メートル・高さ約4メートルを測り、横穴式石室が南に開口する[7]。石室規模は次の通り[7]。
- 石室全長:約9.5メートル
- 玄室:長さ約3.5メートル、幅1.3-1.5メートル、高さ約1.8メートル以上
- 羨道:長さ約6メートル、幅1-1.2メートル、高さ約0.8メートル以上
石室内には組合式石棺が据えられたと見られ、副葬品として琥珀玉が検出されている[7]。この保久良古墳を建皇子の殯塚に比定する説は、古くは江戸時代中期の『大和志』(享保21年(1736年))の「建王殯塚(今曰法具良塚)」の記載まで遡り、明治以降も『大和志料』に「建弭王殯塚」と見え、現在まで伝承されている[7]。なお、その他に「今城」を御所市古瀬に比定する説、曽我川上流に比定する説がある[3]。
- 保久良古墳 玄室
- 保久良古墳 羨道