張允済
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隋の大業年間、武陽県令となった。武陽県と隣接する武水県である男が雌牛を妻の実家に預けて、雌牛は十数頭の子牛を産んだ。男が別居しようとしたところ、妻の実家は牛を与えなかった。男は武水県に訴えたが、県の役人は解決できなかった。そこでその男は武陽県を訪れて允済に訴えた。允済がいきさつを聞き出すと、その男を部下に縛らせて、妻の実家の村を訪れ、牛を盗んだ賊を捕らえたと触れ回らせ、村中の牛を集めて出処を問いたださせた。妻の実家は追及を恐れて、これは娘婿の家の牛だと言い出した。允済がその娘婿を召し出すと、牛を返すべきだといい、妻の実家の家人は叩頭して罪に服した。またあるとき允済はネギを植えて庵を結んで暮らす老母に出会った。允済は「うるさくネギ畑を見張る必要はない。もし盗まれたら訴えてきなさい」といった。老母がその言葉通りにしたところ、一晩のうちにネギが大量に盗まれた。老母が允済に訴えると、允済は近隣の男女を集めて取り調べ、ネギを盗んだ者を捕らえた[1][2]。
高陽郡丞に転じたが、郡将がいなかったため、允済がひとり高陽郡を統率した。王須抜の反乱軍が郡城を包囲し、城中の食糧が尽きたが、官吏や民衆はエンジュの葉を取って乾かして食べ、裏切る者も出なかった。貞観初年、允済は刑部侍郎に累進し、武城県男に封じられた。のちに幽州刺史として出向し、ほどなく死去した[3][2]。