張居翰

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張 居翰(ちょう きょかん、858年 - 928年)は、末から五代十国時代にかけての宦官は徳卿[1][2]

咸通初年、掖庭令の張従玫の養子となり、蔭官により出仕した。中和3年(883年)、容管監軍判官から入朝して学士院判官となり、枢密承旨・内府令に転じた。昭宗華州に避難すると、居翰は内常侍に抜擢された。盧龍軍監軍として出向し、任期を満了して帰ろうとしたところ、盧龍軍節度使の劉仁恭に引き留められた。天復3年(903年)、宦官誅殺の詔が下ると、居翰は劉仁恭にかくまわれ、大安山の北渓に逃れた[1][2]

天祐3年(906年)、朱全忠の軍が滄州を攻めると、劉仁恭は李克用の救援を求めるため、居翰と掌書記の馬郁らを派遣して兵を率いて李克用が潞州を攻めるのを助けさせた。李克用は居翰を留めて帰さなかった。李嗣昭が昭義軍節度使となると、居翰は昭義軍監軍をつとめ、幽州の兵3000を部下とした。天祐4年(907年)、後梁の李思安が夾城を築いて潞州を包囲すると、居翰は李嗣昭とともに城壁に登って防戦し、李思安を撃退した。李嗣昭が出征するたびに、居翰は知留後事をつとめた[3][4]

同光元年(923年)4月、居翰は後唐荘宗に召還されて枢密使となり、特進を加えられ、郭崇韜とともに国政の枢要を管掌した。10月、荘宗が黄河を渡ろうとすると、居翰は李紹宏とともに魏州の留守を任された。荘宗が開封府に入ると、居翰は枢密使のまま、驃騎大将軍を加えられ、知内侍省事をつとめた。同光4年(926年)3月、前年に降っていた前蜀王衍がその一族とともに洛陽に移されることとなった。王衍一行が秦川にいたったとき、ときに鄴都の変が起こっていたため、荘宗は王衍が乱を起こすことを憂慮して、宦官の向延嗣を派遣して詔を運ばせ、王衍を殺させることにした。詔には「王衍一行はそろって殺戮すべし」とあった。居翰はその詔を見て、「行」の字を「家」の字に書き改めた。王衍は秦川駅で殺害されたが、殺戮はその一族近親にとどまり、その属官や従者1000人あまりにはおよばなかった[5][6]

明宗が洛陽に入ると、居翰は至徳宮で謁見を受け、郷里に帰りたいと願い出た。明宗に許可され、そのまま長安に帰った。養子の張延貴が西都職事となり、居翰はかれに養われた。天成3年(928年)4月、長安で病没した。享年は71[5][6]

脚注

伝記資料

参考文献

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