徐質 From Wikipedia, the free encyclopedia 出生 生年不詳死去 嘉平6年(254年)[1]雍州隴西郡襄武県[2]拼音 xú zhì主君 曹芳[1]徐質魏討蜀護軍出生 生年不詳死去 嘉平6年(254年)[1]雍州隴西郡襄武県[2]拼音 xú zhì主君 曹芳[1]テンプレートを表示 徐 質(じょ しつ)は、中国三国時代の魏の武将。 嘉平元年(249年)[3]、蜀漢の姜維は魏に圧力をかけるため、麹山に2つの城を築き、牙門将の句安らに守らせていた。討蜀護軍の官にあった徐質は、陳泰の指揮下で2城を包囲し、彼らの輸送路や水源を断って、降伏へと追い込んだ[4]。 嘉平6年(254年)[1]、姜維の北伐を迎撃(狄道の戦い)。この戦いでは蜀漢の名将張嶷も戦死するが、張嶷の軍が自軍に倍する損害をもたらし[5]、魏軍が敗れ、徐質も戦死に至った[2]。 なお、『三国志』魏書文帝紀には「利成太守の徐質」という記述もあるが、黄初6年(225年)時点で殺害されているため、同名の別人とされる。 三国志演義 羅貫中の小説『三国志演義』では輔国将軍の官にあり、開山大斧を武器とする猛将として登場。姜維の北伐を迎撃し、諸戦では廖化・張翼相手の一騎打ちで連勝を収める。その後、司馬昭の指示で蜀漢の糧道を断つが姜維には見透かされており、伏兵に挟撃された末に戦死に至る(第109回)。 脚注 1 2 3 『三国志』蜀書 後主伝によると、徐質が戦死した狄道の戦いは延熙17年。同年、魏では9月に曹芳が廃位、10月に曹髦が即位し、嘉平6年から正元元年に改元されている。そして『晋書』文帝紀では、狄道の戦いは曹髦即位より前の出来事として扱われている。 1 2 『三国志』蜀書 姜維伝 ↑ 『三国志』蜀書 後主伝 ↑ 『三国志』魏書 陳羣伝付陳泰伝 ↑ 『三国志』蜀書 張嶷伝 典拠管理データベース VIAF Related Articles