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得能氏

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得能氏(とくのうし)は、伊予国桑村郡得能荘(現愛媛県西条市丹原町)を本貫とする、越智氏の流れをくむ河野氏支流の一族。

概要

治承・寿永の乱(源平合戦)における屋島の戦いなどで功績をあげた、河野宗家の河野通信の子・河野通俊(得能通俊)を始祖とする。河野通俊は河野通信の長男であったが、父子ともに承久の乱1221年)において官軍方に付いてしまい、通俊は7月14日に高縄山の戦いで忽那国重に討たれたという[1]。一方、河野通信の息子で唯一幕府方に味方した河野通久が軍功を認められて河野宗家の存続を果たし、通俊の子孫も桑村郡得能荘(現西条市丹原町)を領することを許された[2]。これ以後、通俊の子孫は河野家の分家として得能と称するようになる。

鎌倉時代、得能氏は得能山上に常石城を築いて本拠とした[3]。通俊の息子通秀(太郎兵衛尉、備後介)は西面の武士として知られ、その息子通純(又太郎、備後守)は文永の役に参戦した[3]。その後、家督は弟の通村(弥太郎)が継ぎ、更にその息子が南北朝の争乱で活躍した得能通綱であった[3]

元弘の乱が起こると、河野宗家の河野通盛が幕府方にあったのに対し[4]、土肥通増・得能通綱・重見通宗ら河野家の分家当主が後醍醐天皇に応じて元弘3年初頭に挙兵した[5]。得能通綱らの挙兵に対し、長門探題北条時直がこれを討伐すべく伊予国に出陣してきたため、通綱らは石井浜の戦い・星岡の戦いで長門探題軍を撃破した[6]。一方、河野家宗家の河野通盛は幕府方として戦っていたため、鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政が始まると河野通盛は剃髪して一時俗界を離れ、得能通綱が河野家当主の地位を得ることとなった[7]

しかし建武の新政が短期間で崩壊し、建武の乱が起こると、通綱は通増と共に南朝側に加わり新田義貞に属して各地を転戦した。建武3年(1336年)10月には越前国金ヶ崎城へ入ったが、北朝方の斯波高経に城を包囲され(金ヶ崎の戦い)、通綱は翌延元2年/建武4年(1337年)3月に戦死した。

越中得能氏

伊予得能氏の分家で、越中国礪波郡吉江郷田中村(旧福光町、現南砺市田中)に定着した一族。越中得能家に伝わる系図によると、文明5年(1473年)10月に8代五郎左衛門が蓮如上人とともに北陸地方を訪れ、五郎左衛門はまず野尻郷高堀に定着したとする[8]。さらに10代五郎左衛門は石山合戦において教如上人(東本願寺)に従って軍功があり、文禄3年(1594年)に始めて福光の里(吉江郷)に定着したとする[8]

一方、『福光町史』はこの伝承を疑問視し、得能家の吉江定着は南北朝時代のことと推定する[8]。吉江地域には鎌倉時代から時宗が浸透しており、吉江道場(仏土寺)が建立されていたとの記録がある[8]。時宗は河野家から出た一遍が創始した宗派であり、上述の通り得能通綱が金ヶ崎の戦いで戦死した後、その残党が河野家の縁から吉江道場を頼ってこの地方に移住したのではないかと考えられている[8]

江戸時代に入ると、得能家の三右衛門が寛永8年(1631年)に十村役に任じられ、以後子孫が十村役を継承した。特に三代覚兵衛は前田利常の信任を得て重用されたことで知られる[9]

脚注

参考文献

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