徳山璉
日本の声楽家
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人物・来歴
生い立ちからビクター専属まで
1903年(明治36年)7月27日、神奈川県高座郡藤沢町(現在の同県藤沢市)の開業医・徳山正治の長男として生まれた[4]。
中学受験は、第一志望の東京府立第一中学校に不合格となり、失意のなか錦城中学校へ進学した[6]。同校2年生の2学期頃より、友人に誘われて清水金太郎や田谷力三らの浅草オペラを鑑賞するようになり、しばしば同地の金龍館などに通った[7]。以来、学業成績が下降。3年生の2学期に放校処分となり、翌年の3学期からは従兄弟が通う逗子開成中学校(現:逗子開成高等学校)へ転じた[8]。
父が期待した医学校の受験にことごとく失敗し[9]、中学卒業後は友人の農園で働いた。数か月後、美声を褒められたことをきっかけに、その友人の紹介で東京の会社重役の家に書生として住み込み、本格的に音楽家を目指すようになった[10]。
1924年(大正13年)に東京音楽学校の本科声楽部(現:東京芸術大学音楽学部声楽科)へ合格し、在学中は船橋栄吉やネトケ=レーヴェらに師事した[11]。私生活では本科1年生(22歳)の時に23歳の大阪出身の女性と結婚した[12]。翌年、落第して3年生への進級に失敗し、後年ビクターで一緒に仕事をする四家ふみ子と同級になったが、四家とは当時からあまり仲が良くなかったという[13]。一方で、卒業後に作曲家として活躍する橋本国彦とは、在学中最も親しく付き合った[13]。
1928年(昭和3年)3月に同校を卒業後、妻と3人の子供を抱えながら10か月に及ぶ求職期間を経て、私立武蔵野音楽学校の講師の職を得た[14][15]。この間、ヴォーカルフォアのオペラのコーラスを手伝った縁で、同顧問の堀内敬三から松竹映画『鉄拳制裁』の主題歌2曲の仕事を依頼された[16]。日本ビクター蓄音器株式会社で初めてレコード盤に歌を吹き込んだデビュー曲「たゝけ太鼓」と「応援歌若き力の歌」が評価され、3枚目のレコード吹き込みにあたり、1930年(昭和5年)1月20日付で同社と専属契約を結んだ[17]。
スター歌手としての活躍


翌年には『侍ニッポン』が大ヒットとなった。その後も『ルンペン節』や、四家文子と歌った『天国に結ぶ戀』など数多くのヒット曲に恵まれた。『隣組』、『歩くうた』など、国民歌謡からヒットした曲もある。
一方、声楽家としても活躍し、ジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』のエスカミーリョが当たり役であった。ベートーヴェンの『交響曲第9番』の演奏にも、バリトン・ソロとして何回か出演している。昭和10年代前半には古川ロッパ一座に入り、『ガラマサどん』、『東海道中膝栗毛』などの舞台に出演したり、「シネオペレッタ」と呼ばれた音楽映画にも出演するなど幅広く活躍した。器用な芸で声帯模写やアドリブに秀で、批評家から「この即席にやる座興的動作の器用さ、これが今日の彼の芸の基調を為している」、ロッパからも「徳山璉が出てくれなかったとしたら、僕は、いきなり丸の内で、成功したとは思えない。」と、関係者から高く評価された。
レコードとして残っているのはほとんどが流行歌だが、明るく軽やかなバリトンで、小節などの「邦楽的」な発声法は全く使われていない。音楽学校出身の歌手としては珍しく、コミック・ソングも得意とし『○○ぶし』『歌ふ弥次喜多』(古川ロッパと共演)など多数の傑作を遺している。
ルンペン(ホームレス)・療養所・盲学校などへの慰問活動にも熱心で、東京の盲学校で全盲の生徒に自慢の太鼓腹を触らせ、「お相撲になっていたら今頃は双葉山を負かしていたかもね」などと笑わせたという話も残っている。
人気絶頂のころの1942年(昭和17年)1月28日、敗血症のため死去。満州慰問の際に怪我をしたことが原因と言われている。満38歳没。友人の古川ロッパは舞台出演中に徳山の訃報を聞いて衝撃を受け、弔問であたりはばからず号泣した。墓所は常光寺(藤沢市)。
家族
1925年結婚し、藤沢町鵠沼に新居を構えた。私生活面では、外見の豪放磊落さとは反対の小心な性格で、勝ち気な妻(寿子・旧姓萩谷、1902年11月6日-1992年5月18日)に頭が上らず、かなりいじめられたが、友人たちにはさも楽しそうにそのことを話していたという。
妻・寿子は、戦後、JOAK(日本放送協会)のラジオ番組で活躍した。また、寿子の音楽教室の生徒だった坂本龍一が自叙伝の中で、寿子について、「1902年大阪府生まれ。母は女医。東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に入学するが中退し、音楽学校に編入。コップなどを使った創作楽器の演奏で活躍し、「徳山寿子のキッチン楽団(坂本も参加)」はテレビ番組にも出演。高校の校歌の作曲や、童謡の編曲も手がけた。また、『モガ』の先駆けとしてもメディアに登場している。92年没。」(坂本龍一『音楽は自由にする』新潮社、2009年.p24)と注記している。
『モガ』の先駆けとしては、「徳山寿子(ひさこ)明治35年11月6日、大阪生れ。しつけの厳しい家庭に育つ。父親から「日本で一番難しい学校へ入れ」と教育を受け、御茶の水女子大学へ入学するが、好きな音楽のために女子音楽学校(現・国立音楽大学)へ転校する。その後、「サムライ日本」や「隣組」のヒットで知られる歌手の徳山璉と結婚。『モガ』(モダン・ガール)の先駆といわれ知られている」(『モダン化粧史 粧いの80年』ポーラ文化研究所、1986年.p72)と紹介されている。
息子には、ジャズ・ピアニストの徳山陽がいる。
おもなディスコグラフィ
- 『叩け太鼓』 1930年(昭和5年)
- 『侍ニッポン』 : 作詞西條八十、作曲松平信博 1931年(昭和6年)
- 『ルンペン節』 : 作詞柳水巴、作曲松平信博 1931年(昭和6年)
- 『天国に結ぶ戀』 : 四家文子とデュエット、作詞柳水巴、作曲林純平 1932年(昭和7年)
- 『満洲行進曲』 : 作詞大江素天、作曲堀内敬三 1932年(昭和7年)
- 『大大阪地下鉄行進曲』 : 小林千代子とデュエット、作詞平塚米次郎、作曲橋本国彦 1933年(昭和8年)
- 『隣組』 : 作詞岡本一平、作曲飯田信夫
- 『歩くうた』 : 作詞高村光太郎、作曲飯田信夫
- 『○○ぶし』 : 作詞上山雅輔、作曲高木静夫
- 『紀元は二千六百年』 : 作詞増田好生、作曲森義八郎
- 『撃滅の歌』 : 作詞西條八十、作曲堀内敬三
- 『日の丸行進曲』 : 合唱波岡惣一郎・四家文子・中村淑子・能勢妙子・江戸川蘭子、作詞有本憲次、作曲細川武夫
- 『大陸行進曲』 : 合唱久富吉晴・波岡惣一郎、作詞島越強、作曲中支派遣軍軍楽隊
- 『太平洋行進曲』 : 作詞横山正徳、作曲布施元
- 『さくら音頭』 : 作詞佐伯孝夫、作曲中山晋平
- 『空の勇士』 : 作詞大槻一郎、作曲蔵野今春
- 『国民進軍歌』 : 作詞下泰、作曲松田洋平
- 『大政翼賛の歌』 : 作詞山岡勝人、作曲鷹司平通
- 『愛国行進曲』 : 作詞森川幸雄、作曲瀬戸口藤吉
- 『愛馬進軍歌』 : 作詞久保井信夫、作曲新城正一
- 『瑞穂踊り』 - われらのうた
- 『南方の歌』 - われらのうた
- 『なんだ空襲』 - われらのうた
フィルモグラフィ
すべて出演作である[19]。
- 『百万人の合唱』 : 監督富岡敦雄、音楽飯田信夫、J.O.スタヂオ・ビクター・レコード提携製作、1935年
- 『かぐや姫』 : 監督田中喜次、演技監督青柳信雄、音楽宮城道雄、J.O.スタジオ / 東和商事映画部、1935年 - その息子細身
- 『歌ふ弥次喜多』 : 監督岡田敬・伏水修、音楽鈴木静一、P.C.L.映画製作所、1936年
- 『ハリキリ・ボーイ』 : 監督大谷俊夫、音楽鈴木静一、P.C.L.映画製作所 / 東宝映画、1937年
- 『ロッパのガラマサどん』 : 監督岡田敬、音楽谷口又士、東宝映画東京撮影所、1938年 - 熊野権次郎
- 『船出は楽し』 : 監督伏水修、音楽飯田信夫、東宝映画京都撮影所、1939年
- 『ロッパ歌の都へ行く』 : 監督小国英雄、音楽服部良一、東宝映画東京撮影所、1939年
主なオペラ出演
- 1932年2月28日 『カヴァレリア・ルスティカーナ』アルフィオ(日比谷公会堂)[20]
- 1934年12月17日 『ヘンゼルとグレーテル』父親(帝国ホテル演芸場、35年1月20日同所で再演)
- 1935年3月24日 - 26日 金曜会公演『カルメン』エスカミーリョ(軍人会館)[21]
- 1935年8月2日 - 16日 『カルメン』エスカミーリョ(有楽座)[22]
著書
- 『新曲と聴音』徳山璉(編著)、共益商社書店、1932年(再販1934年)。
- 『徳山璉随筆集』輝文館、1942年。